夏の医者 | 圭花 |
看板のピン | 緑太 |
(仲入り) | |
新しい隠居さん | 花いち |
らくごカフェで毎月1回ある柳家花緑弟子の会。こちらもようやく再開。
平日昼間から500円で3席聴ける。時間も1時間半とたっぷりめ。
土曜日に落語会に行ったばかりなのだが、仕事が切れてしまった。
柳家花いちさんを目当てにして、らくごカフェに出向くことにする。
体温を測ったりはしないが、客の名前と連絡先は記入させられる。
お客は、つ離れはしている。そんなに多くはないが、ツイッターやインスタやってる人の割合の高いこと。
圭花さんから。
おや、文菊師みたいな坊主頭だ。いつから坊主になったのかは知らない。
落語もすっかり忘れてしまいました。忘れないのは皆さんのお顔だけです(場内拍手)。まあ、嘘ですけど。
自粛期間中は、ワイドショーばっかり見てまして、コロナの専門家に詳しくなりましたと。
引っ張りだこの岡田教授がだんだん綺麗になっていくのを見て楽しんでいたのだとか。
私はもともと家にいるのだが、ワイドショー一切視ておらず、なにがなんだかさっぱりわからない。
藪医者小噺に進むので、「藪医者」だろうと思った。市馬師に教わったのかななどと先んじて思っていたら、噺自体が違う。
舞台は田舎で、「夏の医者」。
珍しい噺ばかり好んで掛ける圭花さんにしては普通の噺かと思ったのだが、よく考えたら生で聴いたことなどない。
そう思うと、やはり珍しい噺かもしれない。季節的にはぴったりだ。
夏の医者、よく知っているつもりでいたが、序盤の展開がずいぶんゆっくり。こういうのもあるのか。
展開がゆっくりなことには、意味があるようだ。
隣村で、父親が倒れたというので息子が医者を呼びに慌てて四里の道をやってくるが、医者のほうはずいぶんとのんびり。急ぐ気配もない。
だがこれで、田舎の夏ののんびりとしたムードをしっかりと醸し出すのだ。
医者はのんびりしているが、急患のために急ぐ意思もちゃんとある。若者は山裾を抜けて裏手の隣村まで来たのだが、医者の先生は山越えしていったら三里だ、道はわかっとるだで大丈夫だと。
そして道中、うわばみに飲まれる。飲まれてもやっぱり落ち着いて、一服して考える。
若者はうわばみに消化されそうでうろたえているが、のんびりした先生は名案を思いつき、薬箱の下剤を撒いて助かる。
のんびりすることで、命の危機から救われるわけである。
そこにある種の教訓も感じる。
立川雲水が、仕事について嫉妬の炎を燃やしてやまない弟弟子、談慶師だと、この噺から教訓めいたエッセイを一本書き上げそうだ。「焦らない人が上手くいく!夏の医者から学ぶ生き方の処方箋」みたいなタイトルの。
落語から無理に教訓を導き出さなくてもいいのだけど、圭花さんの夏の医者を聴きつつ、私もまたそんなことを考えた。
圭花さんみたいな人がベテランになると、たぶんこの噺に、こしらえたものでない真ののどかさが漂うはず。そんな日もいずれ来るでしょう。
二番手は緑太さん。この人は久々だ。この会では初めて。
今年2月に放送された「Zabu-1グランプリ」で、ラップ落語を披露していたのにはびっくりしたものだ。
コロナ禍で仕事がないが、なんと柳家わさび師のお母さんから現金が届いた。どうお礼をしようか頭を悩ます緑太さん。
本人は語っていないが、緑太さんは一門の先輩であるわさび師の真打昇進披露時に、番頭を務めたのだったな。落語ディーパーに出ていたっけ。
うちで映画ばかり観ていた緑太さん。
「柳家緑太の映画批評」ということで、テレビで観た「ランボー2」の、ストーリー展開のベタさについて語る。
とことんベタなこの映画を観てから、逆に一作目の「ランボー」を観た。
そうしたら、すでにベトナムでもってあり得ないベタな力を見せつけるランボーが、警官相手で負けるはずないやと思ってしまったんだそうな。
緑太さんは看板のピン。
軽い噺でいいのだけど、編集の仕方がなんだかなと。
噺を刈込み、いっぽうで膨らますそのメリハリが。
オウム返しの失敗部分、ばくち場に乗り込んでいって、断りもなしにいきなり胴を取ってる。
まあ、そういう演出もあっていいだろう。でも、いっぽうで看板の仕込み方が妙に丁寧すぎる気がして。
変に詳しい箇所について、私の嫌いな説明過剰落語のにおいが漂う。
まあ、刈り込むだけ刈り込めばそれでよしなんてのも乱暴だけど。