桂三度「先生ちゃうねん」

ちょくちょく踏み外してしまうのだが、このブログはもともと、噺家さんの批判は目的にしてはいない。
噺家さんに上からものを言うことも、決していいことだとは思っていない。
できれば噺家さんはみな尊敬したいし、事実尊敬する人は無数にいる。

それでも、好きでない噺家は現に少々いる。
生理的に気に入らないという程度では、まだ「嫌い」と思うことをよしとはしない。
理屈を追求していって、なお噺家の了見として納得いかない矛盾を発見し、解消できなかったときに、明確に嫌いになる。
だが、「嫌い」であることを永久に固定しようとは思っていない。嫌いな噺家も、日々理屈でもって克服しようとは思っているし、たまに克服できる。

このブログに批判を書いて以来、その後がずっと気になっている人がいる。「世界のナベアツ」桂三度。
昨年のNHK落語大賞での「虹」という演目に、落語好きの立場から不快感を禁じ得なかったので、それを書いた
当ブログにおいてはすいぶんヒットした記事である。
たぶん、Yahoo!ブログをやっているご本人の目にも触れていることと思う。批判だけ届くのは嫌ですが。
そろそろ、今年度の大賞の時期だ。また検索で批判記事がヒットするかもしれない。
現在、「桂三度 虹」で検索すると三番目に私のブログが出てくる。

桂三度さん、お笑い芸人だったときに、別に悪いイメージは持っていなかった。
芸人上がりであることを理由に嫌いたいわけではない。このような、落語界に転身してきた人をむやみに嫌うと、自分が落語界を必要以上に神聖視する、了見の狭い人間ではないかとむしろ嫌な気になるのだ。
幸い、タレントからの転身組には「三遊亭とむ」という成功例がいる。私の了見が狭くないことは、とむさんが証明してくれている。

さて三度さん、先月「柳家喬太郎のイレブン寄席」に、師匠・桂文枝とともに登場し「先生ちゃうねん」という新作落語を掛けていた。
この噺家さんへの評価を、今回修正せねばと思った。髪の毛もまともに短くしていたし。
「先生ちゃうねん」は、学校をやめたいと相談に来る生徒に、生徒の部活になぞらえて「うまいことを言いたい」高校教師の噺。
生徒がサッカー部だと誤認している先生、「お前の人生はキックオフしたばっかりやないかい。前半45分が始まったばっかりや。自分からレッドカード出してどうすんねん。先生はなんといってもお前のサポーターや」。
しかし実はこの生徒はラクロス部であった。ラクロスの用語がまったくわからないので、うまいことが言えない先生。
改めてラクロスについて予習してから生徒を呼んで、うまいことを言う。
「お前の人生はフェイスオフしたばっかりや。1クォーター目が始まったばっかりやないか。自分からエキストラマンダウン、アウトオブバウンズしてどうすんねん」。
この「うまいこと言いたい」先生をからかうため、次々といろいろな部活の生徒が学校やめたいと相談に行く。吹奏楽や演劇になぞらえて、必死でうまいこと言おうとする先生。

「イレブン寄席」で、ようやく桂三度さんのきちんとした落語が聴けた。
その前、演芸図鑑に出てまたしても薄汚い髪の毛のまま「虹」を掛けていたときは、さらなる批判をしたくなったのだけど。
「色が会話をする」噺はきちんとしていないが、高校が舞台の噺ならきちんとしている、などということではもちろんない。

TV収録の客席から、「先生ちゃうねん」に対して大爆笑が起こっていた様子ではない。
だが、茶の間で聴いていた私は、とてもくつろいで聴けた。そのくつろぎこそ、落語の世界に極めてふさわしいものだ。
お笑い一般と違い、落語たるもの、爆笑よりもまず大人の聴き手をくつろがせないと先に進めない。
客をいたたまれなくさせる部分のない落語には、ウケたかどうかの前に必ず価値がある。落語の定石を無意味に踏み外している「虹」とは違う。
「先生ちゃうねん」では、ギャグと無関係な声色使い分けもしていない。三度さん、もともと落語に向いたいい声なのである。
新作落語の構成としても、「うまいことを言いたい人物」にしっかり普遍性があるではないか。

なんだ。お笑いの技能を直接的に入れ込んだ噺だけではなくて、「落語」が作れるし語れるんじゃないかと思った。もちろん、プロの高いレベルでの話である。
そう考えたら、噺家としてのキャリアの短さも、逆に感心する材料になる。
ひとついい落語を聴けたので、今後聴く機会があれば、きちんと評価させていただきますよ。
まあ、月亭方正なんかとやっている、吉本の落語会には行かないと思うが・・・

ひとつだけ気になったこと。
「先生をからかいに行こう」と生徒たちが企む噺の中の流れが、ちょっとだけ不自然かもしれない。
新作落語で売れている噺家は、「おかしな世界の中のリアルさ」を表現するのが本当にうまいのである。落語の世界にもいろいろあるが、おかしな世界の噺であっても、その中における明確なルールは必要なのだ。
おかしな世界だからルールも適当でいいかというと、そういう噺は聴くに堪えない。
売れている新作落語家と、そうでない者との最大の違いは、この「架空世界のリアリティ」にあると思っている。
作中においてリアルでありさえすればいいだけで、登場人物の行為自体の真のリアリティは不要である。逆にいうと、ウソッパチの噺の中でも、その世界の行動原理が働いていなければならない。
古典落語の「提灯屋」の若い衆のように、生徒が次から次へ面白がって職員室に出向くという感じが出ると、嘘の噺でも落語リアリティを持ち、さらに「らしく」なるはずだ。
どうしたらそうなるのかは、私にも実はまだよくわかっていない。だがひとつには、「行動を説明し過ぎないこと」という原則があるかもとは思っている。「からかってやろう」という説明は不要かもしれない。
まあ、三度さんが才人であることはもとより疑っていない。落語で確固たる境地に到達する日を期待します。

作成者: でっち定吉

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