今年のお盆はまだ落語を聴きに出かけていない。予定は一応あります。
昨年はどうだったか。調べてみたら「小ゑん落語ハンダ付け」ゲスト駒治師の会に出かけていた。
2018年はどうだったかなと思ったら、黒門亭(光る二ツ目の会)と両国寄席(主任・竜楽)。
2017年は、横浜・野毛山動物園で小せん師の会。
さて今日は、落語の演題の表記の揺れについて、私の好き嫌いを一方的に述べるという、ただそれだけです。
落語の演題は、そもそも統一されていないもの。
落語協会の前座さんが落語会でもって、芸術協会の師匠の噺をネタ帳に書くとする。
その際、「置き泥」を「夏泥」と書き、「皿屋敷」を「お菊の皿」と書いたとして、これは別に間違いとは言えない。
ネタ帳の目的は噺がツかないよう記録することにある。目的は達成されている。
このような、同じ噺に複数の演題が付いている例もあるが、それより、ネタ帳に書く表記の問題だ。
たとえば、「たらちね」と「垂乳根」では、どちらがお好きでしょうか?
「たらちめ」と「垂乳女」でも同じこと。
私はひらがな書きが圧倒的に好き。落語らしくていい。
もっとも、垂乳根が落語らしくないかというと、そうもいえないけど。
上方ではなにしろこの噺「延陽伯」だ。ひらがなのほうがいいと共感を得られたとしても、東京落語に限定される感性であることはお断りしておく。
先日も書いた通り、上方では固い演題が好まれる。
世代の問題かもしれないが、日本語の表記には適度なひらがなが欲しいと私は思う。
最近は、何でも漢字変換してしまうのが、生理的に嫌だ。
「当用漢字」時代の、制限すること自体が目的だったのも問題だと思うが、その後ワープロが進化したからって何でも漢字にされてもな。
Wikipediaみたいな表記ルールのないメディアでは、やたら「有る」「無い」という表記が目立つ。こういう表記はまったく習ってこなかった。
メールのやり取りでも、「宜しくお願いします」なんてあるとすごく嫌。
これ、私より年寄りの好みだとは限らない。若い人も、やたら漢字にするのが礼儀だと思っている気配がある。
まあ、日本語の歴史を振り返るとき、好き嫌いで文句など言えないこともわかってはいるが。
白鳥師の「座席なき戦い」は新作落語の傑作だが、ご本人もしばしば「座席無き」って書く。
「つる」という落語、「鶴」だと変でしょう、やはり。「らくだ」が「駱駝」だったら同じく。
「時そば」が「時蕎麦」だと、ちょっと嫌。こういう表記も見るけれど。
先日演芸図鑑で「千両蜜柑」という表記が出ていた。日常で使わない「蜜柑」を、落語のときにあえて漢字にされてもな。
「あくび指南」も、「欠伸指南」と書くことがあるけど、なんだか。
ひらがなで「あくび」と書いてあるところに、噺ののんびりしたムードが漂う、そう思うのだけど。
同じように、「へっつい幽霊」「たいこ腹」「ふぐ鍋」などの表記はとても好ましい。
「竃幽霊」とはあまり書かないが、「読めない」という問題以前に、ひらがなであるべき必然性を感じる。
適度なひらがな好きの私は、泥棒ものについても、「碁どろ」「穴どろ」「釜どろ」という表記が好きだ。
別に「碁泥」「穴泥」で全然いいのだが。ひらがなの「どろ」にやはり愛嬌が漂うわけである。
その割に「夏どろ」とは書きたくないのは自分でも謎だ。単なる習慣の問題か。
ちなみに「もぐら泥」は、これでよし。「土竜どろ」ではない。
私の好みを述べてきたのだが、ピンと来ない方もいるでしょう。
だが、噺家の名前をここにぶつけてみると、腑に落ちるのではないかと思う。
「碁どろ」のような表記のセンスは、噺家の命名法も支配しているのである。
「さん喬」「さん遊」「小ゑん」「彦いち」「きく麿」「天どん」「たけ平」「花いち」「つる子」など。
すべて同じ協会の人を例に挙げてしまった。落語協会には多いが、他の団体にもいないわけではない。
「彦一」とか「鶴子」でも、名前として別に悪くはない。でも、ひらがなが入ることで、アクセントがついて名前がくっきりするではないか。
上方のほうには、こうした名前がどのぐらいあったかと思って調べたが、演題と同様、少なかった。
最近聴いた「しん吉」師などは珍しいほうということになる。
まるでいないわけじゃなく、他には「かい枝」師とか。
でも、上方にもこうした名前を好む土壌自体はあるわけだ。今後増えていくと見た。