上野広小路亭2(寄席地獄絵図)

10月は、落語は一度、無料の落語会に行っただけ。
歌舞伎座には行きました。幕見で観た「マハーバーラタ戦記」は実に面白く、同行の家族も喜んでいたが落語のネタにはならない。

寄席に行きたいなあといつも思っている。
桂小南襲名披露とか、落語協会の真打昇進披露とか、ちまたではいろいろやってるのですが。
三遊亭遊雀師がトリの、上野広小路亭の芸協定席に行こうかと思った。だが、やはりメンバーが薄い。トリまでに疲れてしまいそうでやめた。
黒門亭には古今亭菊之丞師が顔付けされていた。こちらはハッキリ行くつもりだったが、当日家を出損ねてしまった。翌日こそ、国立の雲助師を聴こうかと思ったのだが代演(予定のもの)。

ご無沙汰している立川流に行こうかと思った。毎月16・17日のお江戸上野広小路亭昼席は立川流である。
17日には、最近当ブログで批判している立川談四楼師が出ている。トリは談之助師。
総選挙が近づき、談四楼師、ツイッターの発言がますますヒートアップしている。
どうやら権威が欲しい人みたいだ。権威を求める左翼などみっともないが、世間にはざらにいる。
権威に対して自覚的であったのが師匠の談志だが、弟子のほうは権威への欲求に無自覚なのではないか。
ついうっかりツイッターを覗いてしまっては、いつも嫌な気持ちになる。

ツイッターでの政治的言動でも、談之助師のほうは非常にスマートだ。思想の左右を問わず誰も不快にしない。
談四楼師との違いは、上目線でないこと。噺家である自分自身を常に客観視して笑う視線が常にある。この違いは相当に大きい。
この師匠は心情的左翼で共産党の応援にも出向くそうだが、いっぽうで「落語は弱者の味方ではなく権力にへつらうもの」であるという冷めた視線も忘れていない。

そんな二人の噺家の出る立川流に行こうかとも思ったのだが、やめた。
私は談四楼師の落語そのものについて批判しているわけではない。だが、行くにしても少なくとも選挙が済んでからにしたい。政権批判・小池批判マクラなんか聴きたくないから。
上野広小路亭のそのあとは、18・19日と昼席で、各派連合の「しのばず寄席」をやっている。
本日19日のトリは立川流の総帥、土橋亭里う馬師。仲入り前が芸協の変人・柳家蝠丸師。
これは意外と面白いかもしれない。

里う馬師、「立川流を代表するヘタクソ」として知られている。
しかも吝嗇家としても有名で、後輩たちからドケチエピソードを語られている。
そんな人が代表を務めている立川流もいよいよおしまいじゃないかと思ったりするが、実はこの師匠、私結構好きなんである。
里う馬師の高座はずいぶん前に続けて三度拝見した。うち二回がトリで、いずれもいい出来だったのである。凡庸なマクラはともかく。
だが、ネット上に決していい評判はない。

「立川流を代表するヘタクソ」は、立川流から除名された快楽亭ブラック師が散々ネタにしていたもの。これで、立川流のファンはすっかり里う馬師を小馬鹿にするようになったみたいだ。
シャレがシャレでなくなるのはなんだか恐ろしい。純朴な笑点ファンが、三遊亭好楽師のことを本当に仕事がないと思うのと一緒ではないか。

まあ久々になるが、寄席で鍛えた自分の耳で確かめに行ってみよう。

土橋亭里う馬「お見立て」

このブログでたびたび引用させてもらっている堀井憲一郎氏の言葉。
初心者はしばしば、大したことのない噺家を追っかけてしまうことがあると。
追いかけた覚えまではないが、私にとっての里う馬師がもしかしてこういう存在なのかもしれない。
でも、そんなに下手には思えない。里う馬師、非常に珍しくも、NHKの演芸図鑑に出て「権助提灯」を掛けていたが、これも面白かったし。

先の記事を朝アップしてから、上野広小路亭に行ってきた。
これで、トリの土橋亭里う馬師匠の噺が非常に良かったら、ブログの構成としては完璧だ。そんな色気を持ちながら。

だが、非常に残念な結果に終わってしまったのであった。
何年も前、続けて里う馬師の噺を聴いて感動した頃の私は、堀井憲一郎のいう通りの初心者であった。そのことが悲しくも判明してしまった。
寄席で鍛えた耳により、寄席で鍛える前の耳がダメダメだったのに気が付いた。

私の好きな俳優大杉漣に顔の形がちょっと似ているベテラン里う馬師のトリネタは「お見立て」。
どうしようもなくつまらない噺だったわけではない。少なくとも、目立つマイナスはそれほどなかった。
だが、トリの師匠に欲しいプラス面はほとんどなかった。
今日たまたまデキが悪かったのではないと思う。こういう落語なのだ。
今日は「歴史と文化の散歩ラリー」に参加してから来場の団体客が入っていた。その客が、里う馬師がトリで気の毒だったとは思わない。
むしろ、結構楽しんで帰ったのではないだろうか。私がかつて感動したように。
「お見立て」は普通に面白い落語だし。

落語の耳がなまじ肥えてきたので、以前なら楽しく聴けたであろう噺がつまらなくなってしまったのだ。なんたる悲劇。
趣味について造詣が深くなれば楽しいはずなのに。世の中は思うようにいかないもんです。

「お見立て」という噺の肝は、喜瀬川花魁の悪気のないムチャ振りに、つい応じてしまう若い衆が右往左往する様子であろう。
だが、この若い衆、ドタバタの結果がどうなるのかあらかじめ知っているみたいだ。
喜瀬川花魁のほうも、最初からムチャ振りの結果がどう出るかわかっていて予定調和的に命じているみたいだ。
そして、杢兵衛大尽は、キャラがただの権助だ。権助なら里う馬師のニンに合ってるんだろうが。
どうにも楽しめなくて、噺を聴きながら、頭の65%ほど使って、どうして目の前のこの噺がつまらないのかずっと考えていたのであった。

ちなみに、もうひとりのお目当て、仲入り前の柳家蝠丸師は大変よかった。
この日出た噺家では、「唯一」よかった。
そんなわけで、結果的にこの日は「金返せ」なのだった。2,000円は高かった。

いつになくネガティブに続きます。

寄席地獄絵図

面白い寄席を選ぶ自信があり、事実選んできている私であったが、この日その自信が打ち砕かれた。
里う馬師は残念だったが、しかしまわりがサポートしてくれていたなら、トリがいまひとつでも落ち込んで帰宅するほどひどい寄席にはならない。
この日、本当にひどい噺家が、真打なので30分時間を与えられていて、これが真の地獄だったのだ。恐るべし、しのばず寄席。
1月に、余一会をわざわざ避けて聴きにいったしのばず寄席は実にいい内容だったのだけど。

私は寄席でのファンのあるべきふるまいについて、いつも厳しめに記載している。客席は高座から丸見えであることを自覚してふるまわねばならない。
その私がだ。もう高座がまともに見られなくて、ずっとうつむいていたのだ。耳を塞ぎたかった。持ってきた本に目を落として地獄から逃れたかった。それはさすがに我慢したけど。
ただ、一席終えての拍手は拒否した。

真っ先に前座の「子ほめ」で寝てしまったのが後悔しきり。眠気を後に取っておけばよかった。
このひどい噺家、先日、TVの「浅草お茶の間寄席」になぜか出ていた。この番組、どんな需要があるのか知らないがたまに売れない下手な人も出る。
TVで掛けていたどうしようもない新作落語のVTRは速攻消した。相当に下手な噺家であることは、だから知ってはいた。
下手な噺家には違いないが、いいところもあるいは見出せるかも、と思って承知の上でこの日やってきたのだ。いや、認識が甘すぎた。
TVよりもライブのほうがはるかに強烈な体験となるのは、上手い落語に対してだけではない。下手な落語にとってもまた、有害の度合いが数倍増す。
この日は古典落語の「肥瓶」だったが、新作でも古典でも、下手な人は下手。
この下手な噺家の師匠は、超のつく売れっ子である。入門時の師匠は故人で、今の師匠の師匠。私も幼少時代大好きだった人である。
私の愛する一門で、20年やっているのになあ。
ちなみに、まだ二ツ目の当人の弟弟子たちは、やたらと売れている。

この人が下手だというのは、技術的な問題に確かにたくさん現れている。滑舌悪い癖に早口。無意味にセリフが消えてしまう。客を掴まず上っ滑りしたまま噺が進んでいく。
もっとも、この人の師匠も滑舌悪いことで有名だが、事実として面白いから売れている。声自体はいいし、セリフ回しも楽しい。
そういう細かいことよりも、この下手な弟子が最大によくない点は、「客をいたたまれなくさせておいて、しかも平気」ということである。
「スベリ受け」を狙いに行って、本当にすべっている。その悲惨な状態を、「狙いに行ったスベリ受けだからこれでいい」と信じているのではなかろうか。それはいいわけというものだ。
「相撲取りの皆さん、そんなところで相撲取っちゃいけませんよ」「ドヒョー」
「日本の皆さん、そんなところでクジラを獲っちゃいけませんよ」「ホゲー」
マクラのこんなネタも、話術のある人だったら高座に「引き笑い」くらい呼び込めるだろう。だけど、ただ言いたいから言って、客をいたたまれなくさせてもね。

三平のほうがまだ上手いし面白いと、これは本気でそう思った。
三平とか名前の売れてる噺家ならばともかく、もともと売れていないこの人の名前と所属団体は明かさない。

これ以下の存在が考えられない下手な噺家が、30分演ずる地獄のしのばず寄席。下手だが妙に面白い、などという、好事家の喜ぶ存在ですらない。
昨年、新宿末広亭の落語協会の席に久々に出かけて、下手な噺家を聴かされ、他にあたりがあったにも関わらずへこんだりしたが、新宿は12分だもんな。思えば全然罪は軽い。

この下手な噺家の、めちゃくちゃ売れてる師匠、弟子に注意はしないのかな。預かり弟子だからか。
好きな落語をやれている当人はいいが、金払って30分聴かされる客の身にもなって欲しい。リアル寝床。

もっぱら落語協会の精鋭が集まる寄席ばかり行っていると、他団体の噺家さんをもっと知りたい欲が自然と出てくる。
だが、知る必要のない、というか知らないほうがむしろいい噺家さんも、所属団体を問わず残念ながらたくさんいる。
いや、地雷みたいな寄席がこの世に存在することは知っている。だが、顔付け見て避けられる自信があったんだけどなあ。
私もまだ修行が足りないのだが、だからといって修行のために繰り返し失敗するのはいやだ。
やはり私、ハズレのない池袋演芸場にこもっているべきなのかもしれない。

仲入り前の柳家蝠丸師の高座はすばらしいものだった。この師匠については積極的に筆を割きたい。だが、まだ語る気分が盛り上がってこない。
クッションとして、色物さんをひとり挟ませていただくことにする。

山崎ひろし(ギター漫談)

下手な噺家が、高座にシベリアおろしを吹かせた直後に登場。
「山崎ひろし」というベテラン芸人さん。初めて見た。
東京演芸協会所属のギター漫談家。もみあげがセールスポイント。
通常の寄席の定席には出てこない。各派混合の「しのばず寄席」だから顔付けされる人である。
落語協会のペペ桜井先生がよく高座で、「ギター漫談も、俺と堺すすむちゃんの二人だけになっちゃって」なんて言うが、他にもいるじゃないか。
御年83歳とのこと。今月、見事な高座を魅せてくださった柳亭左楽師匠より歳が上だ。

帽子を取ってボールドヘッドを見せ、お騒がせ議員のネタを振る。
ベースを弾いてたいかりや長介との思い出や、師匠玉川スミの男好きエピソードなどを語る。
ひとつひとつの語りは、別段面白いわけでもない。そもそもなに喋ってるんだかよくわからない芸人さんである。
だけど、年寄り芸人というのは面白い。そのたたずまいが妙に面白いのである。
なんだかわからない語りと、ギャグを挟まないギター演奏。
この芸が、繰り返されるうちにだんだんとツボにはまってきた。寄席というところの最大の価値は「聴き手をリラックスさせてくれる」ところにこそある。
落語の合間に出てくる色物さんは、さらにそういう役割が強い。
地獄の噺家で凍り付いた私の脳が、お爺ちゃんのムダ話で、徐々にほぐれていったのだ。
自分の持ち時間を確認するためにひろし先生自分の腕時計を見るが、「あれ、停まってんじゃないか?」。
大時計を探して、「ああ時計あそこにあった。メガネかけてっと光って見えねえんだよ」
結局、爆笑と大きな拍手をとって引っ込んでいった。

落語の寄席に普段出ていない芸人さんに、寄席の色物向きの人が結構いる。面白いことである。
色物さんのおかげで、多少ポジティブになって続きます。

柳家蝠丸「奥山の首」

当ブログは、楽しい寄席を紹介することに、かなりの労力を割いている。
しかし、2日と半分、続けて悲惨な寄席の実態を書き記してしまった。しのばず寄席だけに、耐え忍ぶ私。
お読みいただいている方が、「寄席なんて怖いところには行きたくないね」などと思うことがないよう祈る限りである。
まあ、初心者は鈴本に行っているのが安全ですし、お勧めします。上野広小路亭には出ない、落語協会の精鋭が出てます。

しかし、地獄に仏。
仲入り前は芸術協会の変人、柳家蝠丸師匠である。ふくまる。
「蝠」の字は虫へん。訓読みだと「まむし」、蝙蝠は「こうもり」。変な芸名。
柳家蝠丸は二代目である。初代は、当代の師匠である先代(十代目)桂文治の父。三代目柳家小さんの弟子だったので柳家の亭号をもらっている。
文治(元は伸治)は父の名前を継ぎたかったそうだが、芸協会長だった師匠小文治に反対されたそうだ。小文治は芸協に「柳家」を増やしたくなかったらしい。
その代わり、伸治の弟子が希望して蝠丸を継いだ。現在、芸協で「柳家」の亭号を持つのは、蝠丸師とその弟子だけだ。

寄席でお見かけするのは初めてだが、昔昔亭桃太郎師匠が、この師匠のおもしろ変人ぶりをよく記し、マクラで喋っているので多少は知っている。
63歳だそうだが、スラリと長身、手足が長く、目鼻立ちすっきりした男前。昔はさぞもてたろう。実際すごかったらしい。
今でも間違いなくモテモテであろう。
蝠丸師、先日「浅草お茶の間寄席」に出ていて、「寝床」をトリで掛けていた。
夜トリなので、すでに出た噺とツかないでできる噺がもうないなんて言って、久しぶりなんだと「寝床」を出していた。本当かどうか知らないがとぼけた師匠。
この録画、一度だけならば結構あっさり視終わってしまうのだが、妙にどこか気になる。
もう一回視ると、なみなみならぬ実力の溢れる高座であることに気づく。

落語協会には少ないが、芸協には、瀧川鯉昇師を筆頭に、そこそこ見かけるタイプ。
どういうタイプかというと、飄々と噺を語りながら、落語の世界を変容させてしまう噺家なのである。

TVで聴いた「寝床」でも入れ事をしていたし、今回の高座でもそうなのだが、メタフィクション的なことをやってくる。
今回も、大工政五郎の自宅に招待される左甚五郎が、「ああ、もう着いた。落語というのは、時間の経過が速くていいね。講談だったらパンと入れないと場面が変わらないから」なんて言ってる。
こういうことをやってくる噺家さんはいて、新作における喬太郎・白鳥あたりの師匠はこれが上手い。古典だと遊雀・白酒といった師匠か。
ただ、メタフィクション的なギャグというのは、客をびっくりさせるという即効性を狙って放たれることが多い気がする。
ところが、蝠丸師匠のメタフィクションギャグ、即効性がない。本当に、登場人物が落語の世界の中で、落語らしく話しているのである。
その効能として、メタ的なギャグの反作用である、「世界観を壊す」ということは絶対にない。
ウケとしては小さいが、ボディブローのようにじわじわ入ってきて、蝠丸ワールドに連れていかれてしまう。
こんな噺家さんは他に知らない。

演目は、左甚五郎が江戸の大工政五郎に世話になるというもので、ずっと「三井の大黒」だと思って途中まで聴いていた。
甚五郎が政五郎配下の大工たちに喧嘩を売るシーンも、甚五郎の腕を大工たちに見せつけるシーンもないが、そのくらいの差異でもって違う噺だとは思わない。
甚五郎が便宜上名乗る名前も、ポン州ではなく「もくぞう」だけども、そんなことも不思議には別段思わない。多少落語を知っている人なら、みんな三井の大黒だと思うだろう。
だが、ストーリーが少々違うのだ。甚五郎が彫るのは大黒でなく生首。
後で調べたら、「奥山の首」という噺だそうだ。蝠丸師しかやらないみたい。

だが、珍しい噺を聴いたとき特有の高揚感というものはそれほどなくて、「三井の大黒」そのものだったとしても別に全然構わない。そんな細かいことではなく、とにかくひたすら、蝠丸師が作りだした、すっとぼけた愉快な世界に混ざって漂い続けていたかった。
しみじみとそう思わされた。

たまに掛かる「三井の大黒」であれば、ぼんやりしていると思ったら実はスーパーヒーローであったという、匿名の人物の超人性が物語のハイライトになるだろう。落語である以前に、まず物語としての特質を色濃く持っている。
ところが、「奥山の首」という噺の特性なのか、蝠丸師の演出によるものなのか、そういう通常の物語性は感じない。
居候になった甚五郎に怒るおかみさんに、実は名人甚五郎であることが明らかとなって聴き手が留飲を下げるようなシーン、入れ込もうと思えばできると思う。だが、そんなありきたりの調理方法ではない。
蝠丸師が語るのは、「落語」という、物語と異なる言語で描かれる世界だ。
その世界に招かれ、好んで訪れた人ならば、非常に居心地がいいと感じるだろう。

こういう師匠の描く世界は、スベリ知らずだと思う。
噺家の狙いが客の気持ちと真逆を向いたときに、スベったという状態になる。だが、蝠丸師が連れていってくれた世界には、「滑る」という概念はたぶん最初からない。
聴き手は、蝠丸ワールドを訪れる能力だけ持っていればいい。あとはその世界を漂うだけでひたすら楽しい。

「奥山の首」のラストシーンは、いきなり500年を飛んで舞台が現代となり、「お宝鑑定団」の収録場面に、甚五郎の彫った生首が出てくる。
もともとこういう噺ではもちろんないだろう。無茶苦茶な展開だが、でも唐突な場面展開に、不思議だけどさほどの違和感はない。なんでもありの世界を作り出せているから。
蝠丸ワールドの中では、こんな場面もシームレスにつながっているのだ。
「銅(胴)が欲しい」というとぼけたサゲで降りる蝠丸師。サゲだけ書いてもなんですが、私のメモ代わりです。
落語というもの、客をがっちりつかんでしまうことに成功すれば、あとは噺家さん、やりたいことができるものだと思う。でも、普通の噺家さんではそこまで行くのが大変なのだ。

また寄席でぜひ、蝠丸師を聴きたいな。この日のように、長い時間の方が、より持ち味が出る師匠なのではないだろうか。

ひどい噺家にどん底に突き落とされたしのばず寄席だったが、蝠丸師のことを思い出して記事を書き記すうちに、だんだん幸せな気分になってきました。というところで終わります。

作成者: でっち定吉

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