噺を教わるということ

落語界にはさまざまな掟がある。
一見、古い世界だけに、「それ、時代に合わないんじゃないか。やめたほうがいい」とファンが思うオキテもありそうに思える。意外とそうでもない。
目的不明の、無意味なしきたりが残る世界ではないのだ。
昔の「三遍稽古」なんて、噺家の間でもノスタルジックに語られるものだが、ずいぶん前からこんな稽古はおこなわれていない。
現在は録音は録らせてもらえるし、DVDを渡されて、これで覚えろなんてことも普通。
三遍稽古にももちろん意味はあったわけだ。だがそのメリットは、録音技術がない前提で生まれたもの。
技術の進化とともにすたれていく文化も多い。この点、世間と同じ。

さて、ちょっと不思議なプロのツイートを見たので。

※「お願いしない」は「お願いしなさい」の誤字。

さすが噺家さんはスジを通すのだなと、感心した人が多かったようだ。
だが私、やや違うことを考えたのである。
立川志ら門さんは、元・文治門下。
謹慎中にパチンコ屋に出入りしていたところを文治師にみつかり、破門を食らった。
だが噺家を続けたくて志らく門下になった。志ら門の「門」は破門の門だそうな。
芸協からよそに行った人は珍しい。芸協は、落語協会から出て行った人を受け入れることが多いのだが。

志ら門さんは二ツ目昇進の披露目に、元の師匠・文治を呼んだ。これはちょっと話題になった。
破門されて他団体に移った人はそこそこいるのだが、元の師匠を呼ぶのは珍しいことである。
そして、今でも文治師に挨拶に出向いているらしい。
だが今回、文治師に「代書」を教わりたいと頼み、拒絶された。代書は東京では、柳家権太楼師の十八番。
そのことを文治師、ツイッターで世間に広めている。なぜこんなことを?

文治師は、元弟子に対しても、落語界の掟の厳しさを教えたいのだろう。
噺を教えてくださいと頼まれた師匠が、「この噺は私からじゃなくて、(私も教わった)あの師匠のところへ行きなさい」と断るのは、ごく普通のことのようだ。
だから文治師の拒絶自体は、格別に厳しいものではない。問題は、なぜ世間に知らしめようとするかだ。

立川流の志ら門さんが、落語協会の柳家権太楼師から噺を教わるというハードルは、結構高いものだと思う。
特に柳家の古い師匠は、先代小さんを裏切って出て行った談志の一門に対しては、わだかまりがなおある。
権太楼師など、落語研究会の収録でも立川流の悪口を言っている。
志ら門さんが、直接権太楼師の元に頼みに行って、あっさり「イイヨ」と言ってもらえるのだろうか。
そういう背景を考えた際、文治師が自分で稽古をつけないまでも、古いやり方を希望する元弟子に対して「わかった。俺から権太楼師匠にお願いしてみる」でもよかったのではないかと。
志ら門さんが、昔の師匠に噺を教わろうと思ったのは、志らく流でない、本来のやり方で噺を覚えたいと思ったからのはず。
つまり、立川流の狭い枠組みではなく、落語界の大きな掟に従いたかったのだ。
そういう了見の二ツ目に対しては、落語界の掟にのっとる形で、最大限の配慮ぐらいしてもよかったのではないかなんて、素人として思ったのだ。

さらにいろいろなことを考える。
志ら門さんの師匠・志らくは、談志の下で、旧来のしがらみにとらわれず成長したとされている。
だから志らくは、噺を人に教わらず、勝手に覚えるかたちでやってきた。
立川流だからといって、みんなこんなやり方なわけではない。談志の古い弟子たちからすると、落語界の仕組みそのものまで壊してしまう志らくは、宇宙人に映ったであろう。
文治師だって、志らくのやり方を、しきたりを(意味を持って)大事にする立場から、決していいとは思わないだろう。
その弟子志ら門だからこそ、あえて公開で諫めているのではないのか。
つまり、背景に志らくへのメッセージがあるのではないか、そう思う。

志ら門さんは先日、志らくのブチ切れ(意味不明)により、まとめて前座に落とされたうちのひとり。
前座に落ちたからって、もう一度前座修業のやりなおしなんてあり得ない。本当の前座の仕事を奪うわけにもいかないからだ。
だから、降格弟子たちは仕事もなく楽屋でぼんやりしていたと、これは「新ニッポンの話芸ポッドキャスト」で志らくの一番弟子、こしら師が暴露していた。
志ら門さんもいろいろ思うところもあるだろう。二ツ目には復帰したにしても、ああ芸協にいたかったなんて思っても無理はない。

文治師は志ら門さんの了見を見ているのかもしれない。
一見、元師匠と元弟子のさりげないやり取りに思える中に、落語とは何なのかという戦いが繰り広げられているのでは。
そして、これは落語界の再編にもつながる話なのだと思う。

立川流は既存の仕組みを壊す団体としてスタートしたのだが、結局壊すことなどできなかった。
寄席は変わらず盛況であり続けている。
落語を揺り戻す大きな力が働き、そこに立川流も飲み込まれつつあるのだ。
私はそう見ている。

作成者: でっち定吉

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