サゲの効能

当ブログでは昨年、サゲについて長々と論じた

おかげで、「サゲ 分類」で検索すると、引っ越し前のブログが最初に表示されるようになった。
サゲの分類は、「ぶっつけ落ち」とか「とんとん落ち」などという、いにしえからのものが、まずある。
故人の桂枝雀は非論理的だとこれを切って捨て、「ドンデン」「謎解き」「合わせ」「へん」という4分類を導入した。
私がさらにおこなったのは、枝雀の分類の否定。さらに、新たな分類をこしらえてみた。

新たな分類をしたからといって、新たなスタンダードが生まれたわけではもちろんない。
もともとサゲの分類自体、不毛な行為という前提のもとで始めたものでもある。分類の結果はそのとおり、どうでもいいサゲこそ落語の主流派だという結論に達した。

それにしても、分類という行為は楽しいものだ。直接役に立たないとしてもだ。
世間の役には立たないが、私自身の役には立った。
ただ結論が出なかったのが、どうでもいいサゲに、なぜこれほど着目してしまうのかということ。

新たな分類を終えたあと、昨年、夏の鈴本(主任・菊之丞)に家族で行った。
その席に出た噺はすべて古典落語で、かつサゲのフレーズが世間において確立しているものばかりだった。

  • うちの小僧も薩摩に落ちた(真田小僧)
  • 前にまわって鰻に訊いてください(鰻屋)
  • 皮が破れてなりませんでした(幇間腹)
  • 黙って飛んできた(つる)
  • ちょうど豆腐の腐った味がします(ちりとてちん)
  • お連れさんは器用だ(あくび指南)
  • 「殿公というやつがあるか」これより八五郎出世をいたします(妾馬)

これだけ耳慣れたフレーズのサゲだけが続くのも、これはこれで意外と珍しいかもしれない。
だいたい、新宿末広亭だったら時間の関係でサゲまで行かない噺が多いし。寄席で「冗談言っちゃいけねえ」がひたすら続くというのは、これ自体一つのネタとしてマクラになっている。
とにかく、確立したサゲまで味わい尽くして、とても楽しい寄席であった。
そして、サゲが客の心中に与える効能について、改めて気づかされた次第。

サゲの分類とは本来、構造的におこなわざるを得ないもの。だがいっぽうで、実際のサゲの持つ効果は、その社会性と切り離せないものだと実感した。
みんながよく知っている噺のサゲは、よく知られているがゆえに、それ相応の効果を持っている。
どれだけストーリー展開に工夫が凝らされた噺であったとしても、知っているフレーズがサゲで出てくると非常に落ち着く。高座から出される魔法のサインだ。

「知っているサゲのほうが価値が高い」とまでは言わない。いつもの噺に、噺家さん渾身の裏切ったサゲがついていても、もちろんいいだろう。
だが、いつものサゲには魔力が詰まっている。サゲを改良しようと頑張ることは非常に立派だが、既存のサゲの魔力を超えるのは、なかなか難しい。

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いつもの噺のいつものサゲは、とても楽しい。
改めて、枝雀分類には根本的な無理があることを思い知る。
枝雀四分類のうち、「ドンデン」「謎解き」に分類されるのは派手なサゲである。だが構造的に派手なサゲであっても、落語ファンにとっては、いつもの楽しいフレーズのひとつに過ぎないのである。
「愛宕山」の、「あー、忘れてきた」というサゲは、初めてその噺を聴いた人にとっては確かに「ドンデン」かもしれないが、落語を知っている人にとってはいつものサゲ。

確かに落語の各演目について、中盤の展開に関していうのなら、客も初めて聴くように感じることはあるかもしれない。噺家が達者ならそうなる。
でも、サゲについてはそうはいかない。客は噺がサゲに掛かると、スイッチが入ってしまう。スイッチが入ってからなおもその先を楽しみにすることはできず、サゲモードに向かって進むことになる。
寄席に来ている客の心中は、枝雀が期待するようには動いていない。ストーリーとサゲとの関連を思い浮かべるのではなくて、決まりきったサゲのフレーズが先に脳裏に浮かんでいる。
構造的な分類からは、客の心中に与える影響のほどはわからない。落語の聴き手の心中まで分類することは、枝雀にはできていない。
派手な噺が、高座に繰り返し掛けられ、擦り切れてからのほうが、サゲはより効果的に働くのだ。
いつものサゲのフレーズを噺家が語る。これほど気持ちのいいものはないのだが、なぜかこの心地よさを論じた人がいない。

サゲを先に喋ってしまったり、サゲを語る途中で拍手を始めたりするファンのことは許せない。自己顕示欲の肥大にもほどがある。
しかし、そういう非常識なことをする心向きについては、理解の外にはない。知っているサゲに掛かって、スイッチが入ってしまうのだろう。
それはくつろぎのサイン。他人も一緒に聴いていることを忘れるぐらいに。
私だって、脳内ではサゲを一緒につぶやいている。人に聴かせることは決してないが。

とにかくサゲを聴く際に、落語ファンはリラックスの極致にあるのだ。
だんだんと、真のサゲの効能とは、聴き手の気持ちを、限りなく落ち着かせ、ふんわり着地させることだと確信するようになった。

新作落語の場合はどうか。
新作については、古典落語ほどは、客も噺を知り尽くしていない。またそもそも噺が固定化されていないから、クライマックスを迎えていることはわかっても、知っているサゲが飛び出すとは限らない可能性も高い。
古典落語ほど、落ち着いては着地することができない。
ではどうするか。知らないサゲであっても、フワッと着地させるようにする。新作落語にごく単純なサゲが多いのは、これが理由だと思う。 地味な、いかにもなサゲで締めるのだ。いかにもなサゲは作りやすいが、そのわりにはサインとしてはしっかりと働く。
もちろん、可能だったら、噺の本編に伏線を張っておいたりして再度ウケたっていい。だけど、サゲだけ新たに盛り上げるのは大変な手間だ。噺を一から作った苦労だけで十分じゃないか。

作成者: でっち定吉

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