ところで、たま師の時うどんも、私の認識しているスタンダードなものではなかった。ご本人はこれこそ代々受け継いだスタンダードだという認識のため、これに関する説明がない。
私が初めて時うどんを聴いたときに驚いたのは、二人出てくる(おなじみの、喜六清八であろう)ことのほうではなく、2周目のうどんがまずくないことだった。
あー、さすが大阪はグルメの街だと、こんなところにいたく感心したりなんかして。
個人的には、ボケの喜六の「前回と同じようにやる」を楽しむ噺なので、うどんがまずい必要はまったくないと思っている。うまいうどんが出てきたって、ふたりいる前回と同じようにはできないのだから。
ところでまずいうどんって、時そば由来では? プロトタイプが発展形に汚染されてしまった?
「2周目がまずい時うどんなんて昔はなかった!」と断言できるほど知識がないけども。
さん喬師の時そばは何度も聴いているが、ギャグに走るたま師のおかげで噺に陰影が付き、とても楽しくなった。おやおや。
師自身は、なまじ時うどんを聴いてしまったために、変えなきゃいけないと思い混乱したと語る。さん喬師はもともと、出たとこ勝負に非常に強い人なので、瞬時に変えることはできるのだ。
だが、今回のものが格別よかったというよりも、さん喬師の高い地力を思い知らされた気がする。噺自体に、特に大きく変わったところはうかがえなかった。
そして、江戸落語らしさがキリっとした寒さによく現れる。こうした要素を、上方落語家も取り入れたくなるわけだ。それは当たり前のことだが。
アフタートークではふたりとも、いいことを語る。
理屈っぽいたま師は、理屈で時うどんに迫る。それは米朝以来の伝統であって、別に悪いとは思わない。笑福亭にある伝統とは思わないが。
さん喬師は、師匠・先代小さんを語る。
寄席のそばの蕎麦屋、混雑すると「小さんさんが時そば掛けたな」とわかったという。ちなみにうどん屋が掛かった後は、うどんがよく出たそうで。
これ自体はよく知られたエピソードだが、さん喬師のいい時そばを聴いた後だと、腑に落ちますね。
私は「食欲増進落語」という概念をひそかに唱えている。
二番煎じ、ふぐ鍋等と並び、いい時そばもまた、食欲を増進してくれるもの。あと、ぐつぐつ。
ところで司会の千原ジュニア、丸くなってきたのでずいぶん慣れた。
だが尖っていた時代のさらに前のほう、千原兄弟としてネタをしていた頃の悪いイメージが私にはまだ残っている。ちょうど大阪で売れ出してきた頃、あちらでしばしば観ていた。
当時流行っていた中川いさみや喜国雅彦といったマンガ家のギャグを彼らがそのままネタでパクッていた記憶は、たぶん一生消えない。
SNS時代の今、こんなことやったとしたら直ちに抹殺されると思う。
まあ、それはいいや。
続いて第2回の放映分に入ります。
このまま土曜の第3回まで切れ目なく続くといい構成なのだが、たぶん無理そう。
桂文治師の「長屋の花見」と、桂塩鯛師の「貧乏花見」の聴き比べ。
第1回と逆に、東が先。
ベテランの塩鯛師を持ってきたところがよく、かなり聴きごたえがあってよかった。
先なので普通どおりにやりますと文治師。後からやっても私はなんとも思ってませんと塩鯛師。
そして桂宗家の文治師を立てる塩鯛師。塩鯛師のほうが9年も先輩なのだが。
文治は立派な名。私なんか、桂文團治(初代)のあだ名です、ろくな名前やない。
これだから京都出身の人は怖い。持ち上げられてうっかりいい気になっていると痛い目に遭いそう。
上方には、「文治」を東京に持っていかれたままの点に、複雑な思いも濃厚にあると思うのだ。
東京で桂を名乗る人などとても少ないのにもかかわらず。
ともかく、文治は11代も続いて立派な名前。
塩鯛師、「長屋の花見」というタイトルはやっぱり粋ですと。それに引き換え貧乏花見って。
こういうことも、上方の噺家さんがよく言う印象。でも、だいたいが下品自慢だと私は思っている。
よくできた番組なのに、1か所いただけない部分。「11代目桂文治」と紹介すべきところ、「ブンジ」の「ブ」を高く読むナレーション。
先日、「先代小さん」の「コ」を高く読むのを聴いて以来の間違った発音。
まあ、難しいのはわかる。桂さんちの文治くんの名前なら、間違っていないわけで。
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