桂南光「抜け雀」・・・説明過剰落語からの解放

抜け雀収録

radikoプレミアムのおかげで、全国のラジオを好きな時間に聴ける。
ナイツを1週間聴くのが大変だけど。
先週は、昇太師のビバリー昼ズに彦いち師が出てきたりして、楽しかった。
ところで毎週聴いている上方の「なみはや亭」と「ラジ関寄席」がまだだなと。

ABCラジオのなみはや亭を掛けたら、関連する番組として「上方落語をきく会」が出てきた。生放送したらしい。
しくじったな。
聴取期限が迫っている中、こちらを慌てて聴いた。昨日の「おなじはなし寄席」を聴いて書いての合間を縫って。
上方落語をきく会の生放送は実に長く、昼の部、夜の部と続く。
夜の部について、林家菊丸師が面白い新作を掛けていたのだけ覚えているが、このあたりになるともはや酔っぱらっていたもので。まあ、なみはや亭でいずれ掛かるだろうが。
昼の部は「桂りょうばしごきの会」。
枝雀の息子として知られる桂りょうばさんが、ネタ下ろし3席。この若手(歳は行ってる)をしごくのが、笑福亭松喬、桂南光の各師。
りょうばさんは数年前に聴いて「声がでかいだけ」だと思ったのだが、もはやそんなことはなかった。今日は取り上げませんが。
泥棒噺のエキスパート松喬師は、「子盗人」。東京でいう穴どろだが、主人公はプロの泥棒という点が違う。
そして南光師は「抜け雀」。これにいたく感銘を受けた。聴取期限が迫っている中で、二度聴いたこれを取り上げたい。

「おなじはなし寄席」は私にとって、大変刺激になっている。
しかし、初回のたま師の「時うどん」の「3文損しよった」に、説明過剰をかぎ取る私。これ自体はみんなが言うセリフだが。
私の嫌いな「説明過剰落語」は東西問わずあるのだが、上方の場合「わかりやすくしよう」という意識がやや強い分だけ、説明過剰に陥る危険が高いかもしれないなと。
だいたい、説明過剰の元祖のひとりが、落語ジャイアント桂枝雀だと私は思っているのだから。
枝雀は大変なインテリで、常に笑いを考え抜いていた人。無意識のエリアにまで立ち入るその人が、なぜ無意識からベタな説明を引きずり出してくるのか、どうしても納得がいかない。

だが枝雀の弟子である南光師から、「わかりやすくする」意思と相反する、「過剰な説明には陥らない」強い意志を感じたのだ。
わかりやすくするのは、客のためだけではない。噺の納得いかない部分を、納得いく形にするのも大事。
多くの噺家は、噺に納得いかない部分が出てくると、持ちネタであってももう掛けられなくなってしまうのだ。「大工調べ」の大家が悪い人間ではないと思ってしまうと、もうできなくなる。

南光師の抜け雀、次の工夫に感服した。演者自身を納得させ、かつ客に対してスムーズで、心地いい。

  1. 舞台は小田原だが、亭主が大阪出身という設定
  2. 亭主に墨を摺らせる理由は、腕がくたびれて絵が描けないといけないから
  3. 宿賃は2両(多くの抜け雀では、5両の宿賃を、雀5羽で支払う)
  4. 雀5羽以外に背景も描いてくれという亭主の要望を断る
  5. 父親絵師がやってきて、絵を見せてくれというのに、亭主が昼間は飛ばないから見ても仕方ないと一旦断っている
  6. 絵の雀が死ぬわけないと抗議する亭主に、絵から羽ばたく雀ではないかと理屈を述べる父絵師

上方の抜け雀というと、南光師の大師匠・米朝のものしか知らない。
You Tube に上がっていた米朝の抜け雀も、今回改めて聴き返してみた。
米朝自身は、小田原なのに上方ことばだという点は、まったく気にしなかったようである。落語とは昔からそんなものだと。
だが現代人はなかなかこれがスルーできない。中身は聴いていないが、当代文枝師が抜け雀にチャレンジする際、舞台を枚方に替えたはず。
南光師はここを自分で納得させるためだろう、亭主を大阪出身にするのだ。仕事で江戸に出て帰る途中、カネを掏られて往生していたところを宿屋に親切にされ、婿入りしたというサイドストーリーが付く。
こういう工夫、入れれば入れるほど、噺を重たくするのも否めない。
たが南光師に関しては、単に自分の納得、それからうるさい客の納得だけでこんなことはしない。ちゃんと、かみさんに大阪弁がうつってしまったことまでを笑いにしている。
そして大阪の客に、登場人物への親近感を持たせる。
ここに、説明過剰落語からの解放を見た次第。

ただ南光師の独自の工夫だと思った部分の多くは、すでに米朝がやっていた。上記でいうと、2~6はすべて米朝だった。クスグリの多くも継承している。
私が説明過剰落語の権化と認識する枝雀の、その師匠と弟子とに、説明過剰回避の工夫があったことを思い知る。
南光師独自の工夫は少ないのか。いや、そんなことはない。
むしろ、米朝のままが自分のものになると思った南光師にますます畏敬が高まるのである。
そしてそもそも、米朝・南光で噺のムードが結構違う。
米朝のものは、絵師親子が本当に貫禄がある。南光師にはこれがない。でも落語なんだから、「貫禄を付けたように描いてみましたよ」でもちゃんとモノになるのだ。
そして宿屋の亭主が違う。米朝の場合、絵師の無銭飲食に一度はしっかり怒っている。片や南光師、一度もしっかり怒らない。
というか、怒る能力に欠けた人。
これが現代を生きる私にはとてもハマるのである。東京で掛かる「抜け雀」「竹の水仙」も、怒らないほうが楽しい。時代だなあ。
そして南光師の話術、継承したクスグリに頼っているわけではない。おはなしを語るだけで、客を高揚させてくれる。かなりダミ声だが。

南光師、サゲは自分でこしらえている。
米朝の「現在親に駕籠をかかせた」がわからないからだろう。
もっとも、このよくできた一席を、サゲの工夫だけで語りたくはない。
トータルですばらしい落語。

南光師は、タレントとしてはネトウヨからの評判の悪い人。
私は、南光師の言動はさして気にならない。もともと非常に柔軟な人だと思うし、それはこの抜け雀にもよく現れている。
それよりも、上方落語協会をおん出たまま意地を張っていないで、弟子の南天師と一緒に戻って欲しいなとは思うが。

作成者: でっち定吉

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2件のコメント

  1. 更新ご苦労さまです。

    抜け雀は上方だとNHK日本の話芸で桂宗助(現八十八)師匠もかけられていましたね。

    説明過剰落語でふと思ったのですが地噺(性質上講釈種の噺なんかがよくありますよね)なんかは説明過剰になりやすいんでしょうか?あとこの落語家さんの地噺は面白いというおすすめの方がいたら教えていただけたら嬉しいです。

    1. 地噺で説明過剰ですか・・・考えたことなかったです。
      なにしろ説明だらけですよね。説明よりも、ギャグ過剰になったら白けるかもしれません。
      私は柳家蝠丸師の地噺が好きです。「高尾」一度きりしか聴いたことないですが。

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