ナイツ塙の名著「言い訳」を再読している。
貧乏人の私、本を買わないので図書館で借りてくるのだ。
会社を辞める前は、電子書籍に完全移行していたのだが、またアナログに戻った。
図書館も読みたい本を読もうとすると面倒なので、つい最近、電子書籍に戻ろうと決意したばかり。だが、図書館の前を通りがかり、吸い込まれてしまった。
まあ、そんなツカミ替わりの自虐はよろしい。
改めて、実に刺激的な書物である。
芸人さんはみな読むだろう。もっとも読んでも意味の分からない、感度低い人もいるはず。まず売れまい。
内容に賛同しなくても、「んなわけあるかい!」と、ツッコミ入れながら読める人はきっと売れる。
この本1冊から、私もブログのネタをいくらでも引っ張り出せる。
たとえば、こんな記事を書いた。
ハライチ岩井の、落語見立ての勘違いについて。
それから、次の記事。
この記事も、後から振り返ると「言い訳」の影響下にある。
素人は、プロの芸人は稽古をしてナンボと思っているだろう。
もちろん稽古は大事。でも、ネタ合わせを何度もすりゃいいってもんじゃないのだ。
今日はこの本に触発されて、「ツカミ」について。
塙は漫才の入りについて、厳しく述べている。ツカミは早いほうがいいと。
褒めているのは、「霜降り明星」。
槍玉に挙げられているのは、「スーパーマラドーナ」や「ゆにばーす」。
悪いほうのコンビのいけない点。「変わった人」だということは客に感じてもらわないといけないのに、自ら変人ですと説明するのが不毛だという。
私の翻訳を混ぜていうと、「外見の印象を客に固定化し、押し付けるのは無益」ということだ。
寄席漫才のツカミだと、ロケット団の「山形出身とパキスタン」とかがおなじみ。
そして噺家にもツカミを取り入れる人がいる。
古いところでは、春風亭柳昇。
「私は春風亭柳昇と申しまして~ 大きなことを言うようですが今や春風亭柳昇といえば~ わが国では~ わたしひとりでございます」
晩年は、「こんなことばっかり言ってたら飽きちゃって。なにかいいのありませんかね」とか、「こないだやらなかったら怒られた」なんて付け加えていた。
付け加えるあたりに、お客の安心感と、それを裏切っていきたい芸人の性根を思い知るのである。
この一門の噺家は、みんなツカミを大事にしている。
昔昔亭桃太郎師は、登場自体がツカミになっている。とぼけた口調でゆったりと「赤ちゃんが」とか、口を開くのがツカミ。
瀧川鯉昇師は、「喋らない」という策に出た。
昇太師も、まず「駆け込んでくる」というビジュアル。そして古い音源では定番フレーズから入る。
「今日は落語を聴くという、こんなビッグなイベントにお越しいただきまして」
晩年の弟子である春風亭愛橋師も、高座に上がって座布団に座る前に、片足を上げていったん静止する。
先代文治の「あ、お構いなく」も知られている。
古今亭寿輔師は、これにインスパイアされているのか、「拍手は要りません。拍手するような芸人じゃないんです」。
1963年に亡くなっているので私は聴いたことはないが、先代鈴々舎馬風は「えー、よく来たなあ」と言っていたそうで。これも柳昇のような、定番のツカミということだろう。
現代では、相撲上がりの三遊亭歌武蔵師の「ただいまの協議についてお知らせします」。
寄席ではこの後、前に出た人をいじる。
兄弟子の当代三遊亭圓歌師は最近、「カルロス・ゴーンです」と登場する。
いつまでも使えはしないが、冒頭挨拶が必要だという意識が強いのだろう。
メクリを指して自分の名前で挨拶するのは、演者を知らない人にもよく伝わるから効果が高い。
柳亭小痴楽師は、「小さく痴漢を楽しむと書いて小痴楽です」。
上方の笑福亭呂好師は、「女風呂の呂に好きと書いて呂好です」。
ある程度キャリアがないと、ツカミといっても客に伝わらない。
しかし大胆にも、今度「㐂三郎」で真打になる柳家小太郎さんは、二ツ目ですでに定番ツカミを持っている。
高座に上がって最初にするVサイン。お客も一緒にやってくれる。
披露目のトリでは、みんな揃ってVサイン。
小太郎さんの兄弟子、柳亭左龍師は、「私が落語界のパパイヤ鈴木です」。
古今亭ぎん志師は、真打昇進後今なんて挨拶しているのか知らないのだが、かつては「人気急上昇中の初音家左吉です。気軽にサーちゃんと呼んでください」だった。
今日の内容、後で「あれも書くんだった」と思い出しそうだ。
こっそり追記するかもしれない。