喬太郎・文蔵・扇辰三人会 その3(柳家喬太郎「芝カマ」上)

文蔵師の青菜の続き。細かい部分もいろいろ。
柳陰(みりんと焼酎を合わせた酒)について、旦那が「柳陰、東京でいう直し」と最初からその正体を割っている。
確かに、「こっちで言う直しじゃねえですか」って、あまり気の利いたくだりだとは思わない。
それから、「お前大阪に友達いたの? 東京にだっていないのに」という、私が嫌で嫌で仕方ないクスグリがなくて嬉しい。
こういう部分に、文蔵師の神経の細やかさを思い知るのである。

さらに丁寧で驚いたのが、「鞍馬から牛若丸が出でまして、その名を九郎判官」について、「台所は女の『蔵』、そこから『うしなった』ものがある」という、隠し言葉の細かい説明。
こんなの初めて聴いたし、初めて知った。誰のものを聴いても、「その菜を食らう」から始めるものだが。
よく知らないが、先代文蔵から来ているのか。

文蔵師の青菜、植木屋がうちに帰る際に、「なんとかここまで来れたな」とつぶやいてまた爆笑。ズルい人だよ。
客から拍手を受けて、「この拍手の意味はわからないけどな」。

仲入り休憩を挟み、トリの一席は柳家喬太郎師。
開演時、文蔵師は掛け持ちで遅れていたのだけど、キョンキョンはただの遅刻だと思います。

オリンピックについて。
もともと私はオリンピックに興味はないですけど、でも全然観ないわけでもないんです。
東京でのオリンピックだし、世が世ならもう少し楽しく観られたと思います。
開会式は観てましたよ。あのピクトグラム面白かったですね。
私、よくマクラで言うんですけど、文系オリンピックがあったらって。でも、あのピクトグラムこそ文系オリンピックだと思いましたね。
我々もね、高座でもって(仕草付きで)「道具屋」「田能久」「青菜」ってね。
こんなオリンピック種目だったら我々得意ですよ。

あの、河村市長はびっくりしましたね。
私らの子供時分に、あんな金メダル型のチョコレートとか、ありましたよね。市長は、あれと間違えたんじゃないですか。

オリンピックの閉会式も、もう少し日本らしさを出して欲しいですね。
だからね、中条きよし、三田村邦彦、京本政樹、こういう人たちですよ。それぞれ決めポーズを取ってもらいまして。
最後に中村主水が出てきて、一刀両断、バッハを叩っ切るという(場内拍手)。
こんなことSNSに上げないでくださいね。
何年か先、東京でまたオリンピックやるってことになったときに、私の発言がぶり返されて、開会式から外されます。
私、別にオリンピックにイデオロギー的な立場は持ってません。志らくさんではないので。

志らくの名を笑いなく出したので意外に思う。
メディアにたくさん露出しているのに、落語協会の高座でもって、名前のまず挙がらない噺家。明らかにみな、無視している。
喬太郎師、寄席を守るクラファンにもケチをつける志らくにつき、静かなる怒りをたぎらせている気がするのだが。
それにしても、個人的にはいろいろ世間に思うところがあるだろう喬太郎師。自分の思想を露骨に語ることは絶対にしない。
自分の思想を語るということは、誰かを拒絶することになる。一流の寄席芸人は、そんな無益な行為はしないのだ。

この落語会では、冬の噺しかしてきませんでした。
さすがに、夏に芝浜とか文七元結とかできませんよね。まあ、私は持ってませんが。
と振っていた喬太郎師だが、「起きておくれ。河岸に行っておくれよ」。場内爆笑。
持っていない、芝浜のわけはない。パロディ落語なのは明らか。
展開は芝浜とまったく一緒なのだが、かみさんの口調が微妙に違う。

落語というもの、演者の一人語りであるがゆえに「喋っているのは、一体誰だかわからない」という混乱する状況をあえて作り出すことができる。
「午後の保健室」以来、喬太郎師はずっとこんなテーマに挑んでいるのだ。落語がいかに自由であるか、無限の可能性を持っているかのわかりやすい証明。

一席終わって私を包んだのは、溢れ出てくる異様なまでの感動であった。
「愛」をテーマにした、深く濃く、壮大な落語。いや、世間のあらゆる芸術と比較しての、異様な感動。
落語の可能性を無限に広げていく噺。
涙腺が緩んで仕方なかった。泣いてる人もいたと思う。

人情噺「芝カマ」に明日も迫ってまいります

 

作成者: でっち定吉

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