本日9月1日は、国立演芸場の芸協・真打昇進披露に出向く予定。
新百合ヶ丘の「喬太郎・白酒・一之輔三人会」とか、31日の柳家花緑弟子の会とか、行きたかったがこれゆえ自重した。
今日は新真打4人がまとめて出る。トリは笑福亭羽光師。
今回の新真打の中では、春風亭昇々師を最も楽しみにしていたのだが。
でも注目激上がりの羽光師も聴きたい。
さて出かける前に、浅草お茶の間寄席で流れた春風亭昇吉師の「柳田格之進」を録っておいたのを聴いたので、取り上げる。
当ブログでは、「東大出」だけがことさらにフィーチャーされる昇吉師については、大変厳しめである。
別にいい大学出てたっていいのだが、他にないのかよと。
5年後には、落語が大したことないことが世間にバレてるだろうとまで書いた。
また昇進後、動員力はあるのかもしれないがトリも取れないだろうとも書いた。
柳田格之進を聴く限り、トリは取れるし、いずれあると思います。
というわけで、今日は批判ではない。批判の場合は、「噺家批判」というカテゴリになる。
今回の一席、大ネタの人情噺はきちんとしていた。まったく悪くなかった。
この後の国立の高座(20分のヒザ前だ)が一体どうかは別にして、今日の感想は早めに出しておこう。
修正すべき批判は修正するし、お詫びもしたい。
まだ好きにはなれないが、好き嫌いですべて語り切ってもいけない。
この一席がオンエアされたこと自体、私の想定外だった。
まず浅草お茶の間寄席の新真打インタビューに、昇吉師も出ていたということ。呼ばれなかったわけでも、お蔵入りでもなかった。
ただインタビューはちょっと変なムード。田代沙織さんが妙に緊張気味だし。
インタビューでも「東大」が出てくるが、これに対し昇吉師「志の春さんとか出てませんか?」と返す。
立川志の春師はイェール大卒の、最高学歴の噺家だが、「浅草お茶の間寄席」に出るわけないじゃないか。
そして、前回オンエアの「あたま山」(私が酷評した一席)について、沙織さんに「観ました?」と強めに尋ねる。
自信作だったのか、あれ。
そして、披露目で出したトリの一席はなんと40分。披露目とはいえ、芸協で40分の高座を務めていいのか? いいならいいが。
そのため、今回の浅草お茶の間寄席は、この人ひとりの登場。番組に気を遣わせる。
すでにこれだけで好感を持てない状態なので、CMカット後、聴くのを躊躇していたのである。
人情噺なので、「下手に違いない」とは思っていなかった。
過去に実際の高座で芝居噺の「七段目」を聴いたとき、マクラはひどかったが本編については褒めたぐらいだし。
向いていない、お笑い路線にこだわらなければいい味を持っているのに。私の批判の大部分は、ここにある。
人情噺に関しては、昇吉師は噺との距離が極めて適切だ。
これ以上のめりこむと、客が先に白けかねない、その手前で止めている。
笑いがなくても、口調が適度に緊迫していて、客がのめり込む。
昇吉師の悪い前提を一切知らずにこの一席を聴いたら、かなり感動したのではなかろうか。
この一席を生で聴いた客も、もっぱらご本人のお客とはいえ、かなり満足したのではないか。
事実として、新真打でこれだけの人情噺はなかなか語れない。
清廉潔白のさむらい、柳田格之進はしっかり固く描く。
主人源兵衛はしっかりできた人間として描く。
番頭徳兵衛は思慮に欠けるが、嫉妬心のような感情に振りすぎず、役目のために差し出がましく行動する、その動機を描く。
娘が吉原に身を沈めないのは、大きな工夫。確かに、現代人はこれに耐えられない。
いったん娘本人はそう決意したが、柳田がやめさせている。50両をどうして作るのかというと、先祖伝来の業物を売ってである。
仇である番頭と娘がくっつくなんて結末も、当然ない。
成金メンバーと昇吉師との距離感、まったくよくわからないままだ。
だが、黒い羊を見るような冷めた視線だけでもないのだろう。こういう高座があるなら、いっぽうで敬意も払っているのではないかと思う。
噺の中で唯一意味がわからないのは、小僧が変な声で喋ること。笑いのない噺のアクセントにしたかったのだろうけど、笑いまでは感じない。
このまま、笑いが不要な人情噺や芝居噺だけやっていれば、ケチなんかつけようがないなと。
冒頭インタビューでも、昇太一門なので新作やってますと自己紹介していたのだが、どうなんだろう。
しかし私のこの戸惑いは、寄席の席亭にもありそうだな。
笑いに対する、昇吉師の渇望は理解できるのだ。芸協は実際、それで偉さが決まる。
でも、落語協会なら異なる基準がちゃんとある。
たとえば五街道雲助師はギャグまみれの噺なんてやらないが、その高座はしっかり楽しい。
そういう方面に活路を見出せばいいのになと、これは結局、従前と同じ感想なのだった。