林家正蔵「心眼」

1週間前にNHK日本の話芸で「心眼」が掛かることを知り、1本記事を書いた。

日本の話芸に「心眼」が登場で驚愕

盲人の心の醜さを描くこの噺が電波に乗るのは、エポックなのだ。
時代は確実に変わっていっている。
もっとも人権を擁護しようとする立場の人たちからすると、これは望ましい変化ではないかもしれない。
少なくともかつての左翼は、心眼を聴きたい人よりも社会的弱者を優先し、「言葉狩り」にも積極的に関与する道を選んでいた。
世の中が変遷してきたこと、一言で言えば「成熟」を感じる。
現代は誰から見ても等しい「正義」が道に転がっている時代じゃない。

日曜日には「演芸図鑑」「浅草お茶の間寄席」「なみはや亭」「ラジ関寄席」などでブログのネタを仕入れることが多い。
浅草お茶の間寄席を視ていたら、ロケット団が出ていた。
最近ますます完成度の高くなったロケット団だが、登場回数はやたら多く、ネタもいつものもの。
ワクチンに絡めて足立区をいじり、薬物を無理に勧めるハラスメントは「キヨハラ」だといじり。
そこに「これ千葉テレビで放映されんだぞ」とツッコミが入る。大丈夫ですよ、千葉テレビには放送コードはないんだから。あるよ。
心眼や、他の放送禁止落語のことを1週間考えていたため、このくだりが今回、妙に刺さった。
これまでは「テレビは一応良識が求められる場なのであり、突出してはいけない」という約束があり、芸人はそれを利用してギャグを生み出していたわけだ。
視ている客の側も「いいのかな」と思う、そのキワキワが。
だが約束自体が変容していっている。
放送メディアは今後、どうなっていくのか? それまでの枠組みが消滅していくと、芸人のふるまいもまた変わってくるはず。

さて、日曜に初めてオンエアされた日本の話芸。演者は林家正蔵師。
まだ無観客。客がいなくてもハンディにはなりづらい噺。
本編の前だけでなく、後ろにも珍しく、演者本人の解説がついている。
前後半のどちらかで、心眼をTVで流すことの是非について語るのかと思ったら、なにもなかった。
今年の放送メディアには、「放送禁止とされていた演目放送をことさらに語らない」というトレンドがあるものか。

後半の解説では、「昔のわかりにくい言葉をそのまま出す」ことに触れる正蔵師。
「わからなくて直す」のも別段間違いではないが、「独鈷に取る」など古い言葉もいいものだと。
直すのがいいか、古いままがいいかは難しい問題で、一口にはいえない。
「現代にわかりやすい言葉を使う」という演者の思想自体がではなくて、現に替えられた言葉自体が、客の気持ちに添わないことがあるからだ。
粗忽長屋で「死んだ心持ちがしない」「きまりが悪い」というフレーズをそれぞれ、「死んだ気がしない」「恥ずかしい」としてしまうと、ひとまずずっこけるのです。
とりあえず古い言葉を意志を持って使うなら、気負わずサラッと入れて欲しいなと思う。五街道雲助師など、これが上手い。
ただ、聴いて難しいと思う人も現にいるのだ。だからって毎回勉強しろというのもね。

古い言葉を入れるいっぽうで、「めくら」という言葉を徹底して避ける正蔵師。
サゲの梅喜の独白も、「盲人というのは・・・」だった。
NHKの要請ではなく、正蔵師自身の自主判断の気がするな。
自分のことを「盲人」とは言わないと思うが。

いろいろと枝葉のことから書いているのは、正直なところ本編がちょっと物足りなかったから。客観的に悪いとまで思っていないのだけど。
エポックな放送への期待が高まり過ぎたか。
正蔵師はもともと、抑制の利いた芸である。そこを物足りないと感じる人もいるものの、演目によってはこれが客の想像を無限に広げてくれるのである。
アプローチを間違えなければ楽しく聴ける正蔵師、今回の心眼のやり方だって、間違っているとは思わない。
しかし心眼を聴いて感動したのが、私の場合柳家喬太郎師だからなあ・・・喬太郎師の、リミットを外し、落語のではなく芝居の演技をぶっつけた心眼を目の当たりにしてしまったので。
珍しい噺である心眼が、喬太郎師ひとりに塗り替えられてしまったのである。まあ、そんなことも世にはある。
喬太郎師に魂を切り裂かれてしまったので、正蔵師の穏やかな芸が染み入ってこなかった。

しかし、初めて「心眼」を聴いて、感動したであろう人の気持ちも、十分想像はできる。
正蔵師の工夫も多々感じられた。
上総屋は、お竹の容姿の悪さを、最初から気を遣って話している。
その女房、お竹はクライマックスシーンで事前の説明なく、庭に潜んで様子をうかがっている。
いっぽうで、上総屋の旦那が消えるときは、主人公梅喜の「旦那はまずい男だ」というセリフの直後。梅喜の発言が気に障ったもの(という解釈ができる)。
整合性の取れない夢をどこまでそのまま出すか、この点が実に難しい噺だという点が、この二例からもわかる。
ただ私は新作落語が好きなので思うのだが、混乱はあえて理屈で解決しないほうがいいことがある。
不可解な状況の辻褄を無理に合わせずに、むしろエスカレートさせたほうがいい。
心眼の梅喜のように登場人物自体が戸惑っている場合、客は混乱せず、勝手に整合性を取ってくれることがあるのだ。

作成者: でっち定吉

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