続いて、ここ連雀亭でよく聴いている橘家文吾さん。
今日は多数のご来場でありがとうございます。こんなのは久々ですねと。
コロナの前は、どこの会にいっても、必ず前のほうに座っているお客さんが複数いらしたものです。
すっかりお見掛けしなくなりました。そしてまだお見えになりません。
きっとお亡くなりになったんだと思います。
夏が続いたと思ったら、いきなり冬になってしまいましたねと。
今日は秋の噺をします。もうできないかと思ってました。
秋の噺といえば、目黒のさんまだろう。この有名な演目以外は、秋の噺というものはあまりない。
目黒のさんま用の小噺「飯炊きの殿さま」「下肥を掛けてまいれ」「桜鯛」。
文吾さんは実に声のいい人で、高い声がよく通る。
殿さまを演じるときは、調子をさらに一段張り上げる。バカ殿みたいな声。
目黒のさんまは季節ものにしては、工夫の余地が乏しい。つまり飽きやすい。
だが文吾さん、いろいろと工夫をしていた。
まず地噺からできる限り脱却して、会話で進めようとする部分。サゲ前に殿さまがさんまの吸い物をいただくときに、懐かしい香りを感じて喜んでいる。
ストーリー的には、あまり出てこない殿さまと家来との駆け比べがハイライト。
この噺、文吾さんの売り物になりそうだなと。
トリは柳家吉緑さん。
マクラから楽しい人なのだけど、狙いすぎて一席トータルで見たとき、外すこともある印象。
だが、この日の「厩火事」は見事だった。人情噺なら、欲張らないので最もいい面が出るのだろうか。
私、一日二食なんです。朝は食べたり食べなかったり。
今日は食べてないんです。前の出番でさんまを出されちゃったので、食欲が湧いて湧いて。
マクラの得意な吉緑さんだが、マクラは以上。
早速本編へ。マクラの楽しい人がマクラをやらない場合、だいたい本編は素晴らしいデキ。
厩火事は、ギャグを入れ過ぎても人情に触れすぎてもダメな、実に難しい噺だと思う。
だが、見事な抑制が見られる。
お咲さんがちょっとふざけ過ぎだなと、旦那の立場から思うぐらいでちょうどいい。もっとも、噺の進行を無視して本当にふざけていたらいけない。
お咲さんは現実になかなか向き合えないので、旦那に茶々を入れずにいられないのだろう。
吉緑さん、悪ノリはしない。
とにかく、お咲さんの感情がほとばしっている一席。
私は落語の人情噺とは、「人の感情がほとばしっているもの」という定義を勝手に打ち立てた。
若い噺家に語れる噺ではないと思っていたが、語れる人には語れるのだ。吉緑さんの心根が恐らく、とても優しいのでしょう。
お咲さんという女性、落語の客にとって様々な姿に見える人である。
一途であったり、ちょっと足りない人に見えたり。とっとと別れちまえばいいのにと思う人も多い。
そもそも好きか嫌いかが分かれる登場人物。
眞子さまとその亭主を連想する人だっているだろう。というか、演者にもそんな気持ちがあったりするかもしれない。
とにかくも吉緑さん、このお咲さんの気持ちに沿って噺を語る。
人間として本質がいったいどうなのか、ここまで客に、無理に理解してもらわなくてもいい。
ただ、この人の気持ちのほとばしりを大事に大事に描くのだ。行動について批判的な視線など持ち込まずに進めるうち、了見自体に客の気持ちが沿ってくる。
思えばこの厩火事、旦那がまずお咲さんの気持ちに沿ってやるという噺である。
旦那は手に職を持つお咲さんのために、別れるべきだと思っている。だが別れたくない心情に共感はしないが、しっかり寄り添ってやるのだ。
客がお咲さんの気持ちに沿ってきたということは、旦那の描き方が丁寧だということでもある。
なるほど、若い人に難しい、最大の部分はここだ。だが、吉緑さんにはできるのである。
冒頭に、「あの男と一緒にならなければお咲さん、あんたも今頃人を使っていただろうに」という(正確ではないです)セリフが入っていたが、それ以外に珍しい部分は特にない。
にもかかわらず、一席通してすべてが新鮮であった。若い人がしっかり語れたら、それでもう新鮮な厩火事なのである。
吉緑さんは36歳。本当に若いが心優しい旦那もしっかり描く。
何の気なしにやってきたワンコイン、3席揃って大満足でした。
続いて1時間後に開始の、「鳳志十八番」に向かいます。