拝鈍亭の橘家圓太郎(下・「締め込み」)

黄金餅だけでも、そして志ん朝のノンフィクション小噺それぞれだけでも実に満足。
さらにもう一席ある。なんて贅沢なんでしょう。

さすがに二席目は、大ネタではあり得ない。
寄席の軽い泥棒ネタ「締め込み」だった。志ん朝から来ているのかどうかはわからないが。
もっとも結構中身が詰まっていて、普段寄席で聴くものと、同じ噺だが印象は違っている。
「外から芯張り棒かっとけ」という、演題の意味がわかる最後まで進んだという理由もあるが、それだけではない。
すべての部分が濃い。

締め込みというネタは、軽くやろうとして予定調和になってしまうこともあるのではないか。寄席で出す際にもこの危険がありそうな気がする。
思い込みの強い旦那に、無実のかみさんを罵らせておいて、泥棒が仲裁して一件落着という、それだけの噺になってしまいかねない。
予定調和だと、「そんなバカな」と脱落する客もいそうだ。

圓太郎師の描き方だと、実に自然である。
本来、泥棒のこしらえた風呂敷包みで夫婦が別れるかどうかの喧嘩をするなんて不自然。不自然な噺だからこそ、「でもこうなっちゃった」を描かないといけないということか。

まず泥棒は新米だ。締め込みより、出来心のほうに出そう。
親分の言いつけを守って留守宅に忍び込んでくる。しかし、裏の逃げ道を用意しておかなかった手抜かり。
ぬか床の横に忍び込むが、このぬかみそは臭くない。私は臭くないのが好きだ。
もともと罪のないかみさんなんだから、ぬかみそかき回さないなんて、そんな欠点追及しないほうが気持ちよくていいと思うのだ。

そこに帰ってくるのは、嫉妬深い亭主。
この亭主も実に不思議な男である。かみさんが浮気をしているという妄想に頭が膨れ上がってしまい、妄想に基づいて追い出すことになってしまう。
なにかの間違いだろうという希望を持つのが普通の感覚じゃないかと思う。
要はヘンな噺なんである。
ヘンな噺だが、原因が自分たちにない夫婦喧嘩がいつか解決することを、初めてこの噺を聴く人も含めてみんな知っている。そこがいいのだと思う。
冒頭から人間をしっかり描いているから、それが伝わるのだ。
人間を描くとは、善の側面を強調するということではない。とにかく、亭主の頑固さ、かみさんのかわいらしさをきちんと描写すること。
そこから夫婦のなれそめが徐々に表れてくる。

湯の沸いたやかんを投げるのは、かみさんのほうだった。
この際に、結婚している女は怖いものだ。特に怖いのは海老名香葉子だという脱線に入るのであった。

仲裁は時の氏神。
この噺、湯を浴びてたまたま出てくることになった泥棒が、勢いで仲裁をする羽目になる。
原因はすべて泥棒にあるのであって、夫婦に礼を言われる筋合いは本来ない。そこが不思議でないというのが、泥棒の人の好さである。
この泥棒、一杯付き合うことになり、夫婦愛を羨ましがっているのがいい。
足を洗って正業に就こうかなとつぶやいている。誰もいない家より、かみさんが待ってくれていたほうがいいではないかと。

楽しい会を締めるいい一席だったのだが、終えた後の圓太郎師、まだ腰を上げない。
90歳の、施設にいるお母さん(一席目のマクラにちょっと出てきていた)は15歳で父を戦争で亡くした。
この祖父は、皇居を守る近衛兵だったという。
近衛兵が現場に駆り出されるようじゃ、長くないなと思いつつ戦地に向かい、戦死したのだ。
このお母さんに言われた。お前も、徴兵されても戦争に行くんじゃないよ。いや、徴兵されないけどねと。
グロな噺と、夫婦愛の噺の最後に、戦争反対の手短なスピーチを付ける圓太郎師。

立ち上がりながら、近頃運動不足で太っちゃって足がしびれやすくなりましたと。
階段を下りながら、「この時期に着物あつらえていると、仲間に稼いでるねと言われるんですけど、腹回りが大きくなっちゃって」。
万雷の拍手に送られて袖に引っ込むのであった。

今回、時間はわりときっちり目に1時間半を超えた程度で終わったのだが、実にもって中身の詰まった会でした。
マクラも、書こうと思って忘れてしまったものが二三。まあ、全部書くつもりもないですけど。

さて、またしても本業が忙しくなってまいりました。
落語のネタもないし、この拝鈍亭があまりにもよかったのでたぶん来週まで出かけることもない。
ちょっと更新頻度が落ちるかもしれませんがお許しを。

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作成者: でっち定吉

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