「誰も傷つけない笑い」と三遊亭円楽

いやあ、参りました。
落語のサゲより重要な「いただき」の発見について熱く語ったのだが、昨日昼アップした「中」が大コケしました。
記事個別のアクセスが、20時間経ってまだ50にすら届いていない。
昨日の1日のアクセス数が、久々に300に届かなかったのもこの記事のせい。
「上」は3日目に入り110を超えているが、これを読み、多くの人が離脱したものと思われる。
一応当ブログもわずかながら収益を上げているわけだ。広告収入の上がらない記事をさらに続けるわけにいかないので、いったん先の続きものはクローズします。
後で「中」を「下」に修正するかもしれない。

嬉しいほうもあって、「春風亭百栄 アメリカアメリカ」の検索がついにトップに立ちました。
ついでに、同じ芝居で出た「落語家の夢」のほうもトップに。
現在、「マイクパフォーマンス」と「フェルナンド」も併せ、百栄師の4作品が検索トップである。

とにかく、今日は別の内容に替えます。
でもって、円楽師。
ちょっと安易じゃないか?

「おしゃれクリップ」という番組に春風亭昇太・桂宮治の両師匠が出ていたので録画した。
おしゃれシリーズってまだあったのか。知らなかった。
司会は山崎育三郎。あ、昭和元禄落語心中の助六だ。
宮治師がとてもいい人として描かれていた。まあ、笑点に華々しくデビューしたのは確かだし、いいです。
しかしこの人の尋常ではない毒舌を知っている者からすると、少々なんだかなという。
売れっ子になってさらにストレス溜めてそう。
他の笑点メンバーは、売れるにつれてストレスがどんどん小さくなっていく人が多いのではないかと思う。好楽師とか。

真の姿はさておいて、宮治師は「ジジ殺し」で「人当たりよく」「自虐もできる」さらに好楽師を手始めに先輩に噛みついていくという完璧なスタイルでもって見事に笑点に収まった。
すべて三平ができなかった要素。
いえ、宮治師の現状が、まるでウソだって言いたいんじゃないんですよ。
徹底して露悪的な姿を押し出している神田伯山先生は、それに伴い出世にブレーキがかかったように思われる。そんなやり方よりはずっと賢い。

さて、絶賛売出し中の宮治師と裏腹に、闘病により笑点から姿を消したのが三遊亭円楽師。
円楽師、もう必要じゃないという内容は先日書いた。この記事のアクセスは多かった。

ネット上に散見される各種調査によると、円楽師は依然として、最も人気の高い笑点メンバーらしい。
これが私にはまったくわからない。
宮治師は、(尋常でない毒舌家であることを知っているにも関わらず)先輩に噛みついている姿が実に気持ちがいいではないか。
円楽師ときたら、自分がボスであるという立ち位置から、まわりを見下すお笑い手法しか持っていないのに。
つまり「司会を譲れ」「好楽ヘタクソ」「小遊三は小便が近い」である。
でも、世には「円楽師こそ司会にふさわしい」「好楽師より円楽師のほうが落語が上手い」って信じている人がたくさんいるんだよなあ。つまりなんと、番組で円楽師に深く共感しているらしいのである。
いっぽうで円楽師、自虐ネタは「友達いない」しかない。いじめた相手、三平なみの貧弱さ。

でっち定吉という人は、笑点の「設定」をいちいち真に受けるのかって?
設定の裏にこそ、真実が隠れているというものです。
真実とは、「昇太師は本当に円楽師がけむたいため、今司会がやりやすい」である。
あの番組の中のやり取りだけでなく、芸協の中で客員の円楽師が好き放題しているのも、会長としてはけむたい。

最近でこそやや言われなくなったが、「誰も傷つけない笑い」が、ぺこぱ以降一世を風靡した。
「傷つけない笑いなんてできるか!」という反発が湧いてくるのは当然だとしても、「誰も傷つけない」ことをよしとする価値観だけはしっかり定着した。
世間に、「笑いのために人を傷つけなきゃいけないわけじゃないんだ」と気づかせてくれた貢献は大きい。
「わざわざハラスメントを仕掛けていってそこに笑いがない」なんてもう、最悪だ。

落語というのも、もともとそういう世界に近しいものだ。
世間の笑いが落語に追いついたのかもしれない。

しかしながら、そんな落語の世界で、人を傷つける笑い手法のみでやってきたのが円楽師である。
「ハゲ」「ジジイ」という、歌丸師への悪態のことではない。
むしろ上がいなくなり、エスカレートした感がある。
なるほどなあと思った。
若い人は傷つけない笑いが傾向として好きだが、上の世代は傷つける笑いをずっと好んでいるのだなと。
円楽師に、他人をグサグサ傷つけて欲しいのだ。それを喜ぶ。
あまりにもな三平へのパワハラを、私以外世間の誰も糾弾しない、その理由もよくわかった。

円楽師は上の3人に早く引退しろとギャグで迫るのだが、もっとも害悪が大きいのは円楽自身。
個人的には戻ってきて欲しくない。
そういえば三平がいなくなったら、木久扇師はたちまち人の批判をしなくなった。
あれはニンじゃなかったのだなあ。

最後に思う。
今日のこの記事はそこそこアクセスを集めるだろう。
その結果「人を批判して(傷つけて)収益を上げている」ことになってしまいかねない。お前もだよと。

作成者: でっち定吉

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2件のコメント

  1. はじめまして。初めてコメントをさせていただきます。
    笑点での円楽師匠の振る舞いや圓生襲名への言及などを見ていると「落語界に自分の影響を与えたい」欲が段々滲み出ているように感じます。
    その滲み出た欲を見ているとわたしは当代円楽の師匠である先代円楽師匠、個人でお世話になっていたという談志師匠の影がちらついてしまいます。
    わたしは上に挙げたお三方の落語は嫌いではないのですが権威欲のようなものも当代円楽師匠は引き継いでしまっているのかしら…と思ってなりません。
    長文失礼いたしました。

    1. コバヤシトカゲさん、いらっしゃいませ。
      100%同感です。まったくそう思います。
      それでも、落語が名人級だったら許せるのですけども・・・
      少なくとも、世間で圧倒的な人気を誇る円楽師をよしとしない人が私以外にもいたということがわかりました。
      またお越しください。次からは承認なしでコメントできます。

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