仲入り休憩を挟み、袴姿のこみち師。
亡くなった大師匠・小三治は千人を超える大ホールばかりで落語をしていたが、師匠・燕路と私は小さな会場専門です。
燕路の地元、江東区の地域寄席に向かう際に、ファンの方から声掛けられました。
礼を言ってその人に落語会の案内をしたら、「ぼく、お金払って落語聴かないんです」。
実話です。
夏の噺をしたいですね。季節を先取りするのが業界では粋なんです。
なんならクリスマスの噺をしたいぐらいです。
と船遊びの噺へ。
「汲みたて」でも持ってるのかと思った。サゲが女性には汚いけど。
熊さん(アニイ)と八っつぁんが、自前のカネで堂々と行く船遊びの話をしている。
これは、上方落語の船弁慶じゃないか。
八っつぁんは喜六であり、熊のアニイは清八である。
実に珍しいが、以前こみち師からは「鮫講釈」(兵庫船)を聴いたことがあるので驚きはしない。
上方落語でも屈指のやかましい女、「雀のお松」が出てくる噺。喜六(八っつぁん)のかみさんだ。
このお松がすごい。外から帰ってきて、長屋のおかみさんたちにベラベラべらべら。
強いかみさんがよく出てくる落語の世界とはいえ、このお松、二つ名「がちゃがちゃのお松」は極めて珍しい造形だ。あとは洒落小町に登場するが。
「男はつらいよ」の撮影本番中、寅さんの渥美清がとうとうと名セリフを語り出すことを、製作スタッフたちは「寅のアリア」と評したという。
そのような、まさにお松のアリア。寅さんと違って人生を語ってるわけじゃないが、しかし異様な迫力がそこにある。
こんな造形、いったいどうやって作り上げたのだろうか。
こみち師の個性を拡大した姿がそこにある。
でも、生身のこみち師はこんなすごい女ではない。それも同時によくわかる。
たとえば先代文枝が、カリカチュアされたお松を豊かに演じるのが落語というもの。
だがこみち師が演じると、ご本人の持っているなにかがそこに投影されて見えるのだ。
こみち師、実に面白い噺を見つけ、そして作り上げたものである。
八っつぁんは日ごろ人のお付き(弁慶)でしか遊んでいないので、なじみ芸者のこちょねにまで弁慶、またはけべんと呼ばれている。
熊のアニイに声を掛けられ、せっかくだから3円持って船遊びに行きたいのだが、でも手銭なのに弁慶と呼ばれるのは嫌なので躊躇している。
それでもなんとかお松の目を盗んで遊びに出かける。
道すがら八っつぁんが熊のアニイに、お松の怖さを語る回想シーン。
お松に買い物を命じられた八っつぁん、買うものを二度も間違える。
お松に背中に熱いお灸を据えられ、熱い熱いと騒ぐと今度は井戸に連れていかれる。夏の井戸は冷たい冷たい。
そしてまたお灸で熱い熱い、冷たい冷たい。
あ、俺の買うのは焼き豆腐だったと思い出す。
つい先日、同門の小はぜさんがやっていた「人形買い」にこのくだり入っていて、噺のハイライトになっていた。
他の人形買いにはなかったから、本来どの噺に入っているんだっけとずっと考えていたのだが、案外早く見つかった。ここが原典だったか。
このひどいくだりを、女性落語家が演じているのだ。どうなんでしょう。
これが、もうやたら楽しかったのです。
このくだりにおいては、お松のアリアは再現されておらず、八っつぁんの目からすべてが描かれる。
しかし落語の客は、つい先ほど目の当たりにしたばかりのお松がどんな性質の女なのか、よく理解している。
八っつぁんをひどい目に遭わせるお松と、こみち師とが二重に見えてくる。
でも、高座の上のかわいらしい女性とお松とがイコールにはならない。ズレているのだけど、でも絶妙の二重写しが見えてくる。
本当に怖い資質を持った女性(それが悪いというのではなく)が、リアルにこういう怖い女を演じたら、ちょっと引くだろう。
なるほど、芸人の気性と噺の相性は、極めて重要なものだなあと再認識。
こみち師は女流落語のパイオニアのひとりとして、落語において女性の登場人物を描くことに、強い意志を持っている。
このやり方は、いまをときめく桂二葉さんとは違う方法論。二葉さんは、男の落語を普通に演じてしまう人。
しかし噺と演者との絶妙な邂逅によって、結果同じ状態が出現するのである。
二葉さんがアホの登場人物を見つけたように、こみち師も怖い女との好相性を見つけ出しているのである。
この後、夕涼みに出向き八っつぁんを見つけるお松、3度目の怖いシーンがあるが、すでに噺の隅々まで楽しさいっぱい。
新作あり、爆笑漫才あり、最後に本格古典を味わう、実に楽しい会でした。
高座を終えたこみち師と、着替えた陽・昇のお二人がお見送りをしてくださいました。
お寺を出てすぐ右手、護国寺西交差点の角にやきとり屋がある。
ここで1本80円のやきとりをテイクアウトして帰りました。うちの近所の有名店より旨かったです。