「林家扇廃業」に寄せられたコメントをブログのネタにする

「林家扇」という噺家さん、辞めてしまったが、最後までつくづくよくない名前だったなと。
「林家扇 廃業」で検索しても、私のブログが引っ掛かったり掛からなかったりしていた。該当記事のアクセス自体は安定してずっと多いのに。
検索結果が安定するまでは、「タグ:破門」のほうがしばしば引っ掛かっていた。つまり林家扇兵衛のほうである。まぎらわしい。

一般論として師匠方に強く言いたいのだが、どうぞ弟子には検索しやすい(オリジナリティの高い)名前を付けてやってください。
ちなみに好楽一門はみな割と検索しやすいのだが、「三遊亭好」なんて名前を新たに作ったら、大混乱するであろう。扇はまさにそんな名だった。

ところで今日はひとつ「林家扇廃業」の記事を出したときに届いた匿名コメントでも出しましょうか。
匿名のメールは、私のルールに伴い承認しない。今回も同様。
だが形式的にゴミでも、中身が論理的で内容に見るべきものがあれば承認したかもしれない。今後はハンドルネームぐらいつけてくれと付記し。
以下、内容もゴミなコメントを引用。

§

木久扇一門本が出版されたのは2022年1月、扇さんが廃業を決めた具体的な月日はわかりませんが、体調不良が鮮明になった年明け以降、しかも落語会の予定を考えると直近と思われます。本の出版にかかる期間は3~6ヶ月程度、執筆はさらにそれ以前のことと考えると、扇さんの説明が不自然なものとは思えません。「とりあえず真打になっておこう」などというのも、あなたの身勝手な思い込みですね。廃業する自由もあるのですから。
師匠=悪という固定観念が強すぎて、冷静な判断ができていないのは問題だと思います。このような一方的な振る舞いは、どこかの国の大統領と本質的には何も変わりません。とりあえず、お医者さんでカウンセリングでも受けたらどうですか?

§

扇さんのファンなのだろうか。
なにに文句吐いてるのか、自分でちゃんと理解できてないんじゃないの?

なにしろ匿名氏の文句の矛先、「でっち定吉が不自然だと感じた」事実そのものである。
私はツイッターその他の材料から、自由に物事を組み立てて、自分自身の見解を導いた。
その脳内の思考の流れを、思考を生み出す過程と事実、それらをまとめて非難しようとしているのだが、気づいてる?
「身勝手な思い込み」もなにもないもんだ。私の脳内は私のもんだ。
自分の脳内で思い込んでいるのは当たり前。
そもそもこのブログは、脳内事実を書くことで一定の支持を得ているのである。

言論封殺大統領はお前じゃ。
いよっ大統領。脳内の思想を許さない秘密警察を操ってチョーダイ。
ジョージ・オーウェルの「1984年」みたいな。

コメントを投げてきた、匿名氏のでたらめな論理展開を分解してみる。

1.扇さんの廃業が不自然だと考えるのは間違っている
2.一門本に扇さんが書いていることも不自然ではない
3.「とりあえず真打になっておこう」は思い込み
4.廃業する自由もある
5.でっち定吉は、「師匠が悪」という思い込みが強すぎる

1が成り立っていないことはすでに書いた。
人を非難すること自体、すべて悪ではない。だが、スタートが間違ったらグダグダだ。
「扇さんの廃業が不自然だと主張するのは道義的によくない」ならまあ、批判として最低限の整合性は取れている。
もっとも、「批判するのはよくない」という主張に替えたとしても、その正当性もどこにも転がっていないけれど。
自分の好きなものを批判されたと勝手に感じ、怒っている子供の論理に過ぎない。

一門本は14人の弟子が寄稿していたが、広告が出たのち、発売までに2人分の記事が消滅した。
それを考えると、扇さんはそのとき一緒に辞める決断をしていてもよかった。義務ではないにせよ。
その際は噺家を続けることを決意していたのに、今回急遽辞めたというのが時系列に基づく事実。
匿名氏はそれも自然なことだと言い、私は「不自然」だと言う。
すんなり呑み込めるのはどちら?

3も非論理的。
4は事実だとして、これから3を否定する理屈はない。匿名氏の望む架空のつながりしか、そこにはない。

ちなみに二ツ目で辞めた人より、真打にはなったが仕事をほとんどしてない人のほうが、落語協会には数として多いはず。
そこから見ても「とりあえず真打になっておこう」はおおむねこの世界を動かすルールだ。

5もまた、架空の前提を勝手に導き出したもの。
木久扇師が悪だって、誰がいつ、どこに書いた。
貴様が、「でっち定吉は木久扇師を悪く書いた」と勝手に読み込んでるのである。
ちなみに1,500件近くの記事が載ってる当ブログ、木久扇師の悪口はまるでない。書いたことないもん。
それを全部読んでからコメントつけろなんて傲慢なことは言わないが、当ブログに木久扇批判の空気など漂っていない。
そんな中で、自分勝手な「でっち定吉は木久扇が憎いから、こんな悪いことを書くんだ」という事実を読み取るのである。

かつて清水義範氏がエッセイだったかエッセイ風小説だったかにおいて、「前提を勝手に持ってくる非難のやりよう」を批判していたのを思い出す。
批判の相手は左翼の典型的論法。清水氏は卑怯なレトリックを批判しているだけで、思想を批判するわけではないが。

こんな事例。
「(政権を批判したうえで)つまり政府は我々に死ねということか。そんなひどい政府に我々の未来を委ねていいものか」

記憶によるもので、正確な引用でないことは断っておく。
誰もなにも言っていない「政府は我々に死ね」を勝手に引っ張り出しておいて、それを相手へのカウンターとして用いる。
極めて乱暴かつ稚拙なやり方。
先日の大石あきこの岸田総理に対する「鬼」発言もこの仲間。鬼の設定は、批判する側のさじ加減でしかない。
こんなレトリックでは、まともな判断を重視する層からはいっそうバカにされてしまう。

匿名氏も、でっち定吉の書いたものを覆すには、客観的視点が必要という意識ぐらいはかろうじて持っているらしい。
だが、上記1~5の展開のうち、客観的に成り立つのは4だけである。あとはすべて主観以外のなにものでもない。
この程度の材料だけで、よく人を批判しようと思ったな。
認知が狂っているから、「でっち定吉の記事に《みんな》怒るはず」と思い込んで行動しているのだろう。
架空の《みんな》を想定していると、傲慢な市民運動にしかならない。

いつもいつも書いてるが、理屈に合った反論なら受け付ける。
理屈が通らない書き込みはこやしにもならない。あ、今回はこやしにはなったな。
コメント付けるのはいいのだけど、最低限の筋道ぐらい通してください。
それができないなら、5ちゃんねるで言いっ放しの悪口を書いて満足するかだな。

とりあえず出してやったから、没コメントもこれで成仏するだろう。

作成者: でっち定吉

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