SNSを制約する民間警察を論破するぞ

しのばず寄席の連載を続けているところだが、中断して。

マクラの内容を書くのはマナー違反だって?
の続編です。
ビジュアルでわかりやすく説明する必要性を感じた次第。

本来は、次にトリ、三遊亭好楽師の高座を取り上げるところ。
明日の分すでに書き終えたが、マクラ書いてたら本編を残して1日分埋まってしまった。

ごくらくらくご氏からの非難の矛先にある当ブログ(直接の非難ではなくても)だが、演者の語ったことを全部書いてしまうことはさすがにいつものことではない。
だいたい、記憶が持たない。
今回は、波長のあった好楽師の言葉が全部流れ込んできた。
明日これを出すにあたり、SNSの自由原則を確立しておきたい。

強く断っておくが、「SNSは自由」だといっても、無制限ではない。私も自覚している。
今から繰り広げるのは決して、「噺家のマクラを全文掲載する権利」の主張ではない。
「落語のブログは『表現の自由』に基づき、原則自由だ」と主張する次第。

原則自由論がすべてを解決するわけではない。
(ないと思うが)好楽師から、「アタシのマクラ全部書きやがって」との抗議が来たら、対応しなければならない。
「二次著作物として著作権料を支払え」と言われたら、いくら出すのが妥当かという交渉を始めることになる。
この際、「表現の自由だからいいでしょ」と逃げることはしない。

それはそうと、マクラやクスグリを書くことで「生じるかもしれない未来」が、「書いてはいけない」理由に昇格することなんてない。
原則と例外は決して順序が入れ替わらないのだ。
ごくらくらくご氏が、いかに卑怯なレトリックを練り上げているかも含め、1日掛けて証明する必要性があると考えた。

以下、でっち定吉の論理がおかしいのではないかと思うことがあったら、基本に戻っていただきたい。
「原則がどうなっているか」を証明している際に、例外をたくさん用意してぶつけてきても、反論にはならないということ。

落語だけではない、表現の自由を取り巻く、この世の枠組みから説明したい。
なにしろ原則論だから、大げさなのだ。
落語における演者と客の関係も、当然含まれる。

【憲法第21条】
一項、集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
二項、検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

ブログを書くのも、1項の「表現の自由」に含まれる。
日本国憲法になり、初めて明確になった権利である。

表現の自由は無制限ではない。
憲法第13条に、例外事項が包括的に記されている。

【憲法第13条】
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする

13条の「公共の福祉に反しない限り」が一般的に、表現の自由を制約できる根拠とされる。
ヘイトスピーチすら、原則は「表現の自由」の範囲内にあるのだが、損なわれる他人の人権が大きすぎる以上、公共の福祉のもとに違法となるわけだ。
だが、原則と例外の順序を間違えてはいけない。
まずは原則のほうを守らなければ。
そして自由の優位性を証明したからといって、濫用はいけない。
でっち定吉が今後、特定の芸人や個人を、表現の自由の名のもとに執拗に攻撃したら、ヘイトスピーチと同じことになる。

表現の価値については論じないというのもポイントのひとつ。
「価値のある表現は保護されるが、価値のない表現は認められない」そんなルールはない。
「でっち定吉ブログは価値があるから保護される」と考えてくれた人がいたとして、それは私に対するフォローにはならないのでお断りしておく。

次に、ツイッターから得られたごくらくらくご氏の世界観を作ってみた。
これは、落語界にのみ適用されるらしいルール。落語界は一般社会と別ルールなのだった。

なんとすごい。
憲法より上位のルールがあるのだ。
ごくらくらくご氏においては、表現の自由よりも落語界の掟が優先されることになる。
落語界の掟を守ったうえで、SNSを楽しみましょうというのがその主張。
なんというか、亀が地球を支えている世界かのように映る。

そもそも論として、こんな掟、私は一度たりとて読んだことがない。
世に存在するとも思えない掟が、落語界においては最上位のルールになるのである。
落語について書いてる人間が掟に従わないとなると、俺なんかもう死刑だな。

図にしてみると、いかに根拠のない、浅い考え方かよくわかるだろう。
要は、噺家への忖度を合理・合法化しているだけなのだ。
噺家さんの機嫌を損ねる落語好きなど許せないと。
それから「シークレットである高座の中身を拡散すると、落語が窮屈になる」とか主張するのだが、これは極めて抽象的な危険に過ぎない。
憲法訴訟において、抽象的な危険を主張しても裁判所には棄却される。というか、「落語界が窮屈になる」こと自体、主観丸出しの産物であり、危険の予感すらない。
危険ですらない危険を、国の根幹をなす憲法よりも重要視するのが、ごくらくらくご氏の論理なのである。

どうせ忖度するんだったらもう少し徹底して、「演目公開」もやめるのがルールじゃないですか?
現にそんなこと言っていた、売れない噺家がいるらしいのだから。
でもそこはOKなんだ。マクラを書くのはNGだが、不愉快に思う噺家もいる演目公開はOK。
批判はどうして許されるんですか?
ルールにすらなってない。論理性がゼロだから。

それに。
「高座の切り取りがNG」なのだとすると、私が明日出す好楽師のマクラほぼ掲載はOKということになるのでは?
どちらもダメなら、「そもそも高座の模様を外に流すのは一切ダメ」という原則論で済んでいる。わざわざ一部切り取りにこだわって言及する意味はない。
なぜ不要な論理を展開するかというと、ひとつひとつの主張がデタラメだから。

法律論を展開すると今度は、「法律がどうした。法律で全部解決するのか」という乱暴な反論も上がってくるかもしれない。
だから最後に、法律論によらない世界観も載せてみる。
私だって、日頃は「粋」「野暮」の概念のほうを好むおアニイさんなのだ。

いいねえ、粋と野暮。
でも、粋と野暮、切り分けられますか?
演目書くのは粋ですか?
どこまで行っても主観に過ぎない。
ちなみに、私にだって私なりとイキのヤボとがあるのだ。

そして、先ほどのふたつ目の図との関連はどうなるのでしょう。
噺家さんに忖度するのは粋ですか?
落語界の掟三原則を昔からあったことにするのは粋なんですか?

まあ、これくらい書いておけばもういいだろう。
反論歓迎。
私としては、でっち定吉のブログ活動に対する根拠ない批判がひとつ減ればやりやすくなる。

明日は好楽師のトリに戻ります。
別に期待していただくほどすごいことは書いてないですけどね。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。

2件のコメント

  1. 一点だけ気になったので。
    憲法上の表現の自由は国家権力による規制を制約するものなので、「落語界の掟」による規制は表現の自由とは矛盾しないのでは?と思います。

    1. いらっしゃいませ。
      落語界の掟なんて果たして存在するのでしょうか?
      掟が明確に存在していて、私人間の権利義務よりも優先するというのなら、わからないでもありません。
      ですが、そもそも存在などしていないと思いますけれど。どこかの人が勝手にルールにしているので。
      そもそも、「落語界の掟が絶対」という考えかた自体、私人間のルールを超えていると思います。
      私人間がフラットである大前提において、日本国憲法の「表現の自由」の権利により、原則が規定されるという考え方は間違っているのでしょうか?

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