落語と人権

シャブ山シャブ子

今回のテーマは落語と人権。なんですかそれは。
ちょっと時期を逸してしまったのだが、やや古いニュースから。
ドラマ「相棒」のシャブ山シャブ子騒動には驚いた。
差別・偏見を助長するドラマの描写がよくないと主張する、専門家の立場に別に異論はない。制作側にもう少しの意識があれば、事前になんとかなったものでもある。
だが、フィクションの世界において、リアリティが最初から犠牲になることが多いのは常識。
そもそも杉下右京の設定にリアリティなどかけらもない。みんなそんなことはわかってドラマを視ている。
ドラマには、しばしば描写自由の領域が存在する。相棒の劇中でも、ロシアのスパイ、中国マフィアなど自由に描写している。
「あんなスパイはいない」「あんなマフィアはいない」と言って文句を付けてくる当事者はいないからである。
シャブ山シャブ子も、比較的描写自由な、日本の裏社会とセットで登場したものだ。
ヤクザだったら、人を殺すためにシャブ中患者を使うことだってあるだろうという、国民の共通認識、恐怖に訴えかけた点は、ドラマとして秀逸だったと思う。
シャブ中なんていうのは、今回の騒動が起こるまで、ヤクザと同様に、完全に向こう側の存在だったのだ。
そんな中、急にシャブ中患者の人権を守れと言われたら、びっくりする。制作側が配慮に欠けていたことに気づかなかったのも、当然といえば当然。
薬物患者への差別解消の訴えは、数ある世の差別問題解決のパターンを踏襲している。
残念だが、相棒のシャブ山シャブ子の回は二度と放送されまい。DVDにすら収録されないと思う。
前例がひとつあって、シーズン3の第7回がこういう幻の回になっているらしい。この回は、機密保持義務を持つ図書館司書に対して、令状を見せる場面を描き忘れたことで封印されたのだった。
そのような、第三者には些細と思えるチョンボであっても、誰かを不快にさせたことで葬り去られる。シャブ山シャブ子の回が同じ目に遭う可能性は極めて高い。この回で撒かれた伏線もあったが、もう使えない。
そのうち、ヤクザの世界もフィクションで描けなくなるな。ヤクザ出身者の更生を阻害すると言って。

この前振りから、「落語と人権」の本題に入ります。
ちなみに、まったく同じ前振りから、自分の分野についてなにかしら声を出さずにおれない専門家のサガをテーマにした記事にも進める。それも今度書くかもしれない。

シャブ山シャブ子の例に見るように、意識していないことで抗議が来る可能性があるから、噺家も注意しなければならない。
落語というものはその性質上、多数派の意見に寄り添う必要がある。この点、本質的に危険なところがあるかもしれない。
本質的に落語は、弱者の味方にはなり得ない気がする。そう思いたい人も多いだろうけど。
与太郎がフィーチャーされるのだって別に、落語に弱者を大事にする発想があるわけではない。面白いからに過ぎないのだと思う。
だけど多数派の利益を大事にして少数派をないがしろにしていいとなると、いじめで笑いを取ったとんねるずと変わらない。幸いそうはなってない。

シャブといえば昔、春風亭昇太師が立川談志をネタにして、「あの師匠はこれ、(注射)やっちゃってますからね」と高座で喋ったそうで。談志は激怒したと聞く。
この事件は、当時において果たして怒るべきものだったのかどうか、よくわからない。
人権に絡めて怒ったのでないことは確かだ。キツいシャレということで、許してはもらえなかったのだろうか。

LGBT

古典落語で描かれるのは昔の話だと思っている人も多いはずだ。だが、間違いとは言わないが正確ではない。
時代設定は昔であっても、描いているのはだいたいにおいて現代。
昔の人情・風俗を固定化して、現代の客に解釈を強いるような芸能とは性質が違うのである。
だから、ヒモ男が威張っている厩火事はいずれ滅亡するかもしれない。ヒモ男は現代にもいるけど、サゲがいささか現代ではキツい。

落語ではなくて笑点の話だが。先週視た笑点なつかし版のアナウンサー大喜利に、若かりし時代の日テレアナが登場していた。
西尾由佳理、馬場典子、松本志のぶの各女子アナに、羽鳥慎一たちが突っ込み合う。
そこで繰り広げられた応酬は、女子アナたちに向かって嫁に行き遅れてるぞといったセリフ。もちろんこれは台本だが、現代から見たとき、もはやスムーズに笑えないネタ。
素直に笑えるという男性は、現実世界でセクハラ、パワハラ、妻に対するモラハラの限りを尽くしていないかよく振り返ったほうがいいんじゃないかと思う。
多様化をモットーとする現代人は、性別を超えた相手の立場についても、よく理解するよう務めねばならない。理解できなければ社会の敵として扱われるし、そのことに誰も同情してくれない。
保守だろうがリベラルだろうがあるいは極左だろうが、主義主張を問わず時代の変化には鋭敏であったほうが幸せと思う。落語の好きな人も然り。
杉田水脈の問題は尽きるところ、世間が時代に合わせて否応なく変化していく中で、「動かないのが正しいのだ」という主張を持ち出したことにあるのだろう。
信念を持って動くことを拒否している人でない限り、付いていけない。普通に生きている人は、世間に押されてどんどん流れていく。
昇太師に対する嫁来ないネタ、孤独死ネタは現代の笑点でまだまだ健在だが、家族が多様化している時代において、いつまでも笑い続けられるかどうか?
私はまだ笑ってはいる。だが、問題意識のかけらぐらい持っている。

さてシャブ山シャブ子より先に、落語と人権の問題を考えるようになったきっかけがある。杉田水脈とも関係するが、LGBTである。
シャブ中患者の人権より、LGBTの人権保護はずっと先を行っている。LGBTは先進国では犯罪ではないので当たり前であるが。
結果、多数派にとっての垣根が溶けてきている。
そしてLGBTの権利の確保と、一見昔話風の落語の世界、うっかりすると抵触する気がしている。
垣根があると、ここから先のことについては笑っていいというメッセージとなる。だが垣根が溶けると、笑いづらくなる。多方面に気を遣わないと。
LGBTはまだまだ数の上では少数派。多数の共感をよしとする落語においては、性的少数者はまだまだネタになる。
ある師匠は、二丁目が大好きである。
同じ協会の、多くの後輩がこのことをネタにしている。今年も二度、別の噺家さんからそれぞれ聴いた。
ある売れっ子の二ツ目は、高座で「ホモの○○」なんて言っていた。
もちろん、シャレである。その二ツ目さんだって、噺を教わっているのだ。

こういうシャレを、マクラの楽しい人が話すととても楽しい。私においても、生理的な拒否感が先に立つわけではない。
だが、笑いながら同時に思うのだ。
落語が好きで、お笑いが好きで、歌舞伎も好きで、そして同性愛者だという人はごく普通にいるであろう。
そういう人にとって、こういうネタはどう響くのだろう。
実際にはたぶん、そちらの人はその手のネタに慣れており、いちいち傷ついたりなどしないのかもしれない。
むしろ、オタクが柳家小ゑん師匠の落語で、自分たちをネタにされたことに笑うような感覚すら持っているのではないか。二丁目のオカマさんたちならそんな気がする。
だが、シャブ山シャブ子騒動を見てわかるとおり、人権に対する配慮というものは、理念が先行しないといけないのである。
ネタにされる師匠について、「あの師匠は本当はソッチじゃありません」なんて真面目に反論する人もいるかもしれない。それもまた、誰かにとって失礼。
では、このネタはやめた方がいいのか?
同性愛ネタだけ狙ってやめるというのもまた違うだろう。
とにかく多数派の共感を得る落語の宿命として、少数派を無意識にあちらに追いやってしまっていないか、常に見極める必要がある。
私は人権派のフリをして、落語における配慮を強要しているのではない。そこはしっかり断っておきますが。

笑うもの/笑われるもの

三遊亭白鳥師匠は、しばしば老人をネタにして爆笑新作落語を作っている。「老人前座じじ太郎」「戦え!おばさん部隊」「座席なき戦い」など。
これらのネタについて、老人を馬鹿にしているという薄っぺらい論評だって、まかり間違ったらあり得なくはない。
だが、客席の多数を占める老人たちにとっては、バカウケのネタ。
当たり前と言えばこんな当たり前の話もないけど、でもいっぽうで昔、私の祖母が桂文珍師匠の老人ネタに怒っていたのを思い出す。白鳥師の成功は結構すごい。
新作派の白鳥師は、溢れる才能を抱えて緩い寄席の世界を生き抜き、誰にでも受ける普遍的な落語を作るようになった人。
外国人ネタの落語も多い。外国人ネタの場合は、寄席の年寄りと違って対象者がネタを聴く機会が極めて限られるが、でも師の目線は非常に優しい。
ここに落語の本質があるように思う。笑うほうにも笑われるほうにも、相互に余裕がある。互いを笑いあえる余裕が漂うのが寄席というところ。
そう考えると、性的少数者のネタをどう扱ったらいいかにも解決策がある。疑問に思ってやめてしまうのは、単に臭い物に蓋をするだけ。
LGBTも、相互に共感の生じる笑いの渦の中に入れてしまえばいい。
壁の向こう、自分に関係ないあちらの人としてではなく、ボーダーラインのないこの世の中を一緒に漂う存在として。
落語は少数派の味方にはなり得ないかもしれないと書いた。
だが落語は味方はしないまでも、少数派とのボーダーラインを溶かして一体化する機能だって持っているのではないか。

与太郎を再び例に。
私丁稚定吉は、落語の登場人物与太郎に強いシンパシーを感じている。
多くの落語において、与太郎がしっかり楽しく描かれているからこそのシンパシーだ。
与太郎のことを、話の登場人物も客も、誰も「本当はバカじゃないんだ」なんて言わない。ちゃんとバカだけど、常識人の世界観を裏返してくれる与太さんはみんなの仲間なのだ。
与太郎も、落語の中では一方的に笑われる存在ではない。だから生き続けている。

LGBTに戻る。同性愛ネタの落語というものは、古典落語にはほぼない。
景清とか、骨つりといったあたりのサゲに少々出てくるくらいか。今ではほぼそのくだりはやらないと思う。
唯一、明確に同性愛、というか少年趣味を扱っているのが「お釜さま」。
詳細についてはかつて「寄席芸人伝」の記事に書いたのでそちらをご参照ください。
江戸時代はお楽しみとしての男色が盛んだった。
東海道中膝栗毛の喜多八は、元は陰間であり、弥次郎兵衛はその客である。だが、落語にはそういうキャラは出てこない。
坊主の女犯について扱った落語やマクラはあるのにね。品川の客にんべんのあるとなし、なんて。
にんべんのあるのは「侍」、ないのは「寺」つまり坊主。
ドラマ昭和元禄落語心中(第3話)で映し出された、雨竹亭の架空ネタ帳に「お釜さま」があってびっくりした。今では泣ける人情噺になっている「藪入り」の原型。
ドラマの設定である昭和初期に、果たして掛かっていたかどうか。
お釜さまを聴いたことはないけど、現代に掛けても絶対にウケはすまい。男色の噺である以前に、小児性虐待である。
こんなものが現代社会に受け入れられることはないだろうから、滅びるしかない。LGBTを語る噺にはならない。
はなし塚に埋められなくたって、滅びる噺はたくさんあるのだ。
もっとも、お釜さまだって、不謹慎だから滅びるべきだというのではない。一時期はちゃんと価値があったらしいのだ。
「故郷へ錦」なんて不謹慎さからいえば双璧の噺があるが、こちらはまだ細々と残っていきそうだ。少しでも共感が得られるならば、まだ噺に寿命はある。

ブログのマナー

シャブ山シャブ子から始めた記事だが、シャブ中患者も、新作落語の中でちゃんと笑いになっていることを思い出した。
林家彦いち師の「掛け声指南」とか。
本質的に落語の世界においては、描く対象を自分たちと違う世界に追いやらない。
こうした部分がじわっとした世界観の優しさにつながるのだろう。

人権と落語のありようについて考えることは、尽きるところどう配慮すればいいか、なにが配慮なのかという問題。
障害者が寄席に来れば、ちゃんと楽屋には伝わる。客を不快にさせないため、噺の選択に配慮が求められるのである。噺の選択は噺家の最も大事な仕事。
落語を扱うこのブログだって、書きたい放題ではない。なにかしら配慮が必要。
ここから、つながりがやや強引かもしれませんが。
当ブログは現在、おかげさまで1日100を超えるアクセスを得ている。「落語 ブログ」で検索して、1ページ目に載る日がやってくるとはまさか思わなかった。
こうなると責任がある。書くものは吟味しなければならない。
書きたい放題ではないというのは、自粛とは違う。炎上を防ぐ以前の問題。世間に公開するにあたっては当然のマナーというものがある。
落語と一緒にするのはおこがましいが、ブログだって共感してもらわないと価値がない。ひとりごとの垂れ流しでは読むに堪えない。
今まで寄せられた、批判的なコメントは2件だけ。それも書き捨てのようなものだけなので、ネタ選びについてはかろうじて成功しているのかなと思っている。

噺家さんにだって人権がある。汚い言葉で批判を浴びせるのは避けたい。
噺家さんの批判、大枠としてはしないつもりでいるが、とはいいつつ結構書いてしまった。無名な人については匿名での批判を守っている。
今後も、建設的な批判はすると思うが、むやみな悪口は書かないようにしていきたい。
林家三平師はいまだ好きにはなれないが、世間のほうは先んじてポンコツキャラを受け入れてしまった。こうなるともう、ネガティブな意見は書きづらい。
三平の勝利だ。おめでとうございます。いや、マジで。
今落語の批判記事を書くとしたら、よく取り上げている立川談四楼師についてでは、たぶんない。
この師匠、シャレの欠けた政治的言動がイヤなだけで、落語について批判したことはない。
立川流の二軍である広小路亭や日暮里を主戦場にしている人を落語界の重鎮扱いするのは、さすがに、世間の勘違いがひどすぎると思うけど。
今をときめく逆張りコメンテーター、立川志らく師の落語だったら批判する価値があるかなと思っている。この人はいまだに、ほとんどの噺家よりたけしのほうが落語が上手いと業界を挑発し続けている。
たけし落語の評価はさておいて、物差しとなる自分自身を、落語のトップに勝手に据えている態度は不愉快極まりない。
三遊亭円丈師や神田松之丞のコメントはさておくとしても、プロアマ含めて一体どこの誰が認めてるんだ。
寄席の緩さから生じてくる、噺家の滋味などのメリットは、たぶん一切理解できていない人。昨日取り上げた三遊亭白鳥師が、なぜ現在の姿になれたかも。
ただ、聴かなきゃいけないな。嫌いな人の落語を聴くのは嫌だが、聴いてなにか得られることもある。

さらにつながる話はまだまだあるのですが、今回はこのへんで。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。

2件のコメント

  1. 初めて書き込みいたします。しばらく前から覗いております。今回初めてこちらの記事を拝見しました。私自身はXジェンダーですが、マクラで使われるホモ、おかまという言葉に関しては、脊髄反射で全否定せざるをえません。気にしない人もいますし、世代によって受け止め方も違ってくるので一概には言えないまでも、個人的にその言葉で追い詰められて自殺した人を知っているため、なおざりにはしたくない。私自身も人生の色んな局面で罵倒されてきました。

    一般論で語るなら、直接的な表現より、マイクロアグレッシブに該当する言い回しの方が、より当事者の神経を逆撫でにするだろうと考えています。「男と生まれたからには、女が嫌いなわけがない」という、廓噺で使われる例のあれです。そもそも平安時代にはすでに善友という言葉があり、江戸期にも念友、念者、衆道という表現が使われていたわけですから、性自認に対する理解は低くとも、性志向に対する共有認識はある程度あったはず。そのような時代背景をないがしろにするという点でも不可解ですし、なにより「お前が決めつけてんじゃねえ」と苛立ちを禁じえません。

    好きな噺家さんがマクラで侮蔑的な言葉を平然と使っているのを見聴きすると、ああこの人もこの程度だったかと、悲しくなります。

    普段は他人様のブログにコメントを残したりはしないのですが、書かずにはいられませんでした。お目汚し御容赦ください。

    1. 馨雪さん、コメントありがとうございます。

      私にはなんとも申し上げられません。
      笑いというもの、もともと万人に受け入れられることはないと思います。
      そうだとして、少数派を傷つけないように気を遣うというのは、落語界の目指すところでもあると思います。
      けれども、いただいたコメントに即して少数派を傷つけないように落語界が配慮するなら、現状では来場の際に寄席の受付に申し出て、ネタ帳に、
      「性的少数者の方」
      と書いてもらい、演者に来場を告知する以外にないと思われます。

      寄席で、視力障害者が来場すればめくらの噺はしません。それと同じです。
      「視力障害者を傷つけるから、落語においてめくらの噺は一切しない」というわけにはいかないのです。
      問題意識のみ、いただいておきます。

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