文章を書くことについて堀井憲一郎に刺激をもらう

Yahoo!に転載されていた、堀井憲一郎氏の最新コラムを読んだ。
リンク先は元のサイト「現代ビジネス」のものである。

「落語を覚えること」と「文章を書くこと」の間にある「意外と深い関係」についてご存知ですか…?

以下堀井氏を「ホリイ」と略す。別に上から氏に迫る意図はなく、一方的な親しみによる呼び捨てでもない。
堀井氏が並ぶと目にうるさいので、わかりやすい三人称として。
ホリイは、もの書きの端くれである私にも、常に刺激を与えてくれる人だ。
たまに内容について、そりゃおかしいんじゃないと思うところもあり、そういうのはネタにさせていただいている。
今でも、「林家九蔵」事件については、ホリイのまとめはおかしいと思っている。だがまあ、怒りまで覚えたのはそれぐらい。
落語について書くことも、私とは見解が違うなとは思いつつも、おおむね楽しく読ませていただいている。

現代ビジネスのホリイ担当コラムを読むと、落語は全体の一部で、あとはドラマと二郎、それからお笑い。範囲広くて今さらながら驚くなあ。
ホリイの文章は、冒頭に署名が出ていなくてもすぐわかる。ちょっと読んですぐ筆者がわかるというのはつくづく感心する。
そして、穏やかなユーモアに満ちている。
東京かわら版や、かつての「ずんずん調査」のように、もっとギャグまみれのものも書く人。
たまに商業的に日和ってるなと感じることもあるが、それも含めプロのもの書きとして、私は常に敬意を払っているのである。

ホリイが今回書いたのは、落語ネタでもあるが、「文章を書くこと」がメイン。これはいつも以上に見逃せない。
ホリイは上に広告張った文章読本も書いてるが、あいにく未読です。読むつもりはあります。

とにかくも、今回のコラムによればである。
かつて高校生の頃落語を覚え喋っていたおかげで、もの書きになれたのだそうだ。
落語を喋る努力のおかげで、すらすら文章が書けるようになったのだと。
そして現在、文章のテクニック論としては、その大部分が「目の前の人を楽しませる」ことにあると。

へえと思う。
思いつつ、私はこんなことまるで考えたことがない。だいたい、落語喋ったことないし。
まるでピンとこない話だが、しかし大きな刺激を受けた。

実際のプロの噺家が書いた文章を読むと、わからないでもない。
たとえば春風亭一之輔師である。

私も噺家の文章に刺激を受け、こういうものを書いたことがあるのです。

噺家の文才について

この際論じたのは「文章も上手い噺家がいる」というだけである。
落語が上手くて文章が上手ければ、すごいねという、ただそれだけ。
ただホリイの筆と重ね合わせれば、どちらも上手いのはある種当然ということにもなる。
先の記事では触れなかったが、柳家喬太郎師も、まさに喋るような文章の書ける人だ。

もちろん、文章の下手な噺家も、本業の下手な噺家も、両方下手な人もいる。だから、素人として落語を喋っていただけで文章が上手くなるという論理には相当無理もあるけれど。
ただ、ホリイの経験としてはそれが正解ということだ。それはよく理解できた。

さて、ホリイの見解に、一般論としての価値があるとする。
それとまるで連動しない、私自身の文章について語る。

私には、ホリイのように「他人を楽しませる」という高尚な考えは薄いかもしれない。
だいたい私、落語を喋るどころか、スピーチに定評があった歴史も全く持ってないのだった。
面白いヤツだと思われたことも、それほどない。
あったとすれば、ごく狭い範囲において「意外と面白い」程度である。ユーモアのつもりの言動をしても、嫌がられることも多かった。
喋りを確立した歴史のない私は当然、喋るようには書けない。そもそも、他人に向けて書いていない気がする。

そんな私が6年間ひたすら、ほぼ毎日書いていたら、いつの間にか当ブログも人気になった。
ここ1年のアクセス数の伸びは、まったくの想定外ですがね。

私も一応プロのライターではあるものの、本業のほうで当ブログの文体は使っていない。
斜に構えて対象を捉えるやり方までは共通しているが、仕事としては実にマジメな文章を書いている。この点もホリイと違う。

ひたすら書くその作法の根本も、ホリイを意識すると恥ずかしい。
なにせ、他人より自分が喜ぶほうが先に来るんだから。
いや、別に自分を喜ばせるため「だけ」に書きはしない。一生かけて自分のために「非現実の王国で」を書いたヘンリー・ダーガーとは違うのだ。
私も読者を一応想定してはいるものの、目の前にいるのは鏡に映った自分自身かもしれない。

ホリイは多分書いたものを読み返したりはしない気がするな。
私は読み返すのだ。何度も何度も。そしてそのたび自分で喜んでいる。
書いたときと、読むときのズレが時間的経過で大きくなるにつれ、さらに楽しく読める。若干、自分自身から離れたものに変質しているのだろう。
ブログの伸びにつれ、自分で喜ぶ度合いも上がった。そこから、ウデが上がった事実も間接的に読み取れるけど。
読み返すおかげで、長い間放置されていた誤字に気づいたりなんかします。

私もホリイのように、「文章論はこれだけ」とマネして言ってみたい。
私の場合は、「リズムだけ」である。
人は活字を読みながら、脳内で発声している。そのリズムが整っていると心地いい。これは意識している。
最近でこそ落語のリズムにも着目してはいるが、なにせ喋ったこともないし、そこから引いてきた要素ではない。
リズム云々は村上春樹のウケウリである。別にハルキストでもないのだけど、村上春樹が「リズムのいい文章は、できる人にはできる」と書いていたのが頭にこびりついている。
この要素は人から教われるものではないらしい。
この武器は備わっていると自負しているが、これだけで勝負できるかどうかはなんとも。
とにかく、ブログでも本業でも、ここまで来たらもうちょっと出世したいものである。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。

2件のコメント

  1. ホリイさんは、東京かわら版に、自分が聴いた落語をまくらと本編で、何分何秒と書いていることがあります。長い噺、短い噺とまとめています。
    寄席に行くと、ノートパソコンを開いて、まくらが何分、本編が何分と入力している人を見かけます。また、くすぐりも入力しているように見えます。あの方がホリイさんなのかもしれません。
    何の意味があるのか、わかりません。
    というか、周りの人からすれば迷惑と思うのですが、どうなのでしょう。
    寄席の人も注意をしに来ないので、認められているのでしょうか。
    以前、一之輔師が、落語を演っているときにメモをするのをやめてほしいと言ったことがあります。パソコン入力は、もっとだめだと思います。
    私は、年間2,000席以上を生で聴いて、演目だけは、記録していますが、高座の最中は、メモしないことにしました。
    これ(高座の最中に、記録すること)をどう思われますか。

    1. ホリイ氏は著書で、「客がメモを取るのは演者の気を削ぐのでよくない、ただし私は取りまくっていて本当にごめん」と書いています。
      自分勝手ではありますが、自覚はあるようで。
      仕事のためだから仕方ないのかどうかまでは、私にはなんとも。

      ホリイ氏はさておき、一般論としては私はメモを取る行為は、いい悪いではなく尊敬はできません。
      落語本編が始まった際に、周りに見せつけるように演題を記録する行為には、「ネタ帳ドレミファドン」という名称を与えています。

      私は当ブログ、全部記憶で書いています。演題も控えてません。
      昼夜居続けでも、演題を忘れる心配すらしません。
      内容が詳細なので、「録音してるんじゃないか」とときに疑惑を掛けられております。
      てめえの脳ミソでもって人の能力を決めつけるなと言いたい。
      「メモは良くない」という作法があり、それを守っているのに一方で糾弾されることがあるという。
      最近、訓練によりますます覚えられる量が増えてきました。覚えていて、面白かったら書きます。

      高座の模様は覚えられるので、メモを取る必要性はまるで感じておりません。
      このスタイルでブログ書く人がもうひとり出たら、定吉スタイルがスタンダードになるかもと思ってますが。

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