先日、落語には、サゲより大事な「いただき」がある(下)という記事を書いた。
そこそこヒットしました。
だがよくわからないのは、「中」のアクセス数はさほど増えていないということ。
1年後にようやく書いた「下」だけ独立してヒット。「上」もわずかに増えた。
まあいい。
ものを書いてみるということは、対象が整理されるため、書いた本人にとっても大きな刺激になるものだ。
構造を分析してみたことで、改めて落語って本当に面白いよなあと思ったのです。
落語に通う人でも、「落語(の演目)って面白い」とつくづく思うことはそれほど多くないんじゃないでしょうか? いえ、惰性で通っているとは言いませんがね。
落語に慣れている人こそ、「演者」に注目しすぎてしまい、古典落語の演目にじっくり迫ることが減るのではないか。
今回はいただき論の実践を。
それから、もうひとつ分析する要素を盛り込む。「飛躍」である。
新作落語について書くときには、飛躍という要素はよく取り上げている。
登場人物や世界に、日常から離れた飛躍があると、新作落語はとても楽しくなる。飛躍からスタートするとついていけなくなるが、日常から始まるなら大丈夫。
ところで飛躍の要素は新作落語に限るものではない。古典にもちゃんとある。
いただきと、飛躍。そしてもちろん、サゲ。
これをわかりやすく提示できる古典落語はないかなと考えていた。
粗忽長屋もいいのだが、あの噺は、世界自体は普通のものだ。人と世界、両方に飛躍があって、サゲが特徴的で、にもかかわらずサゲ以上に「いただき」の価値がある古典落語がないだろうか。
ひとつ見つかった。そば清。
そば清をつついてみます。
難をひとつ言うと、そば清はネタバレ注意の噺である。
今さらそば清のネタバレしても誰も困るまいが、最初からサゲを割る前提で書くというのも気が引けるので、それは書かない。
ともかく、ネタバレ注意が意味するのは、数ある古典落語の中でもサゲの重要性が高いということ。サゲに注目してしまうのが普通。
でも、だからこそフリがある。フリがすなわち、いただきである。
「いただきのほうが、なんでもないサゲより目に見えてわかりやすく重要」という性質の噺ではないことは断っておく。
マクラ
そば清を掛けるために、このマクラ、という決まったものはないと思う。
「死ぬ前につゆをたっぷり付けてみたかった江戸っ子」小噺など、適当か。
時そばと異なり屋台ではないので、二八の十六文など振らなくていい。
あとは、醤油を一升飲んで翌日起きてこなかったバカ男の話など。
現代の噺家なら、大食いに関してフリースタイルで語ればいいところだ。
物語の世界
古典、新作を問わず、落語の世界の設定には種類がある。私が作った分類。
- 日常の世界(飛躍のない世界)を描く落語
- 日常の世界(飛躍のある世界)を描く落語
- 非日常の世界を、日常として描く落語
- 非日常の世界を描く落語
そば清は、世界が2から3にまたがっている。落語としては王道である。
ステージを移動すると、噺にギアチェンジがあって面白いのだ。
町内の若い衆が集まるそば屋に、非日常が紛れ込んでくる。そば食いで賭けをなりわいにしている清さんだ。
この噺は、日常の世界に非日常の人物が紛れ込んで来て、始まるのだ。
そして、客の視点も若い衆にある。客も新たな異物を見ている。
清さんは、おそばを毎日10枚食べてしまう人。
しかも勝負になると20枚は全然平気。30枚でもなんとか平らげてしまう。
しかし、50枚の勝負になると自信がなく、いったん逃げ出す。
飛躍
ここで噺の構造がガラっと変わる。それまでは、日常世界にちょっと特異な人物が紛れていただけだった。
そして主人公清さんは、あくまでも客の視線の先にいる人だった。
だが清さんが旅に出ると、すべてが変わる。落語はこういう点が自由である。
挟み込まれたシーンは、清さん視点。
清さんが遭遇するのは、うわばみ。大きな蛇が人を飲み込んでいる。
そして、大きなお腹でもがき苦しむが、生えている草をペロペロ舐めるとお腹が引っ込んでしまう。
清さん、しめたと。
2であった噺は、3に変わる。うわばみが普通にいる世界。
ただし、あり得ない世界ではある。非日常が過ぎると感じる人もいるかもしれない。
3でなく4と考えると、いささか飛躍が極端でキツい。
なのでこのシーンは手短に、ぼんやり描くことが多い。清さんがなんの仕事をしていて、なんのために旅に出向いたのか詳しく描写すると、噺のリアリティが飛んでしまう。
ちなみに、そばの賭けをしてる人なので、仕事のために旅に行く必要なんて本当はないけども。
再び日常へ
そば清はあり得ないシーンを挟んで、また日常に戻ってくる。
ただし、大蛇が舐めた草(蛇含草)を踏まえているので、世界は変質しており、もう元には戻らない。
日常(2)ではなく、非日常の世界(3)のままである。
蛇含草というスーパーアイテムを握った、超人そば食いとなった清さんが、異常なスピードで50枚を平らげていく。
いただき
落語の「いただき」は、サゲと違ってまだ定義付けが済んでいない。
私が発見したばかりなので、当たり前である。
手短に定義しておく。
- 噺の最重要部分
- 注目されがちなサゲのくだりの始点
- サゲのフリ
サゲが普通の古典落語より重要なそば清であっても、いただきはさらに重要。
おそばが羽織着て座っているサゲは楽しいが、ちゃんと仕込みやフリが必要なのだ。
そば清のいただきは、50枚そば食い勝負のシーン。これはサゲに負けず面白いし、演者の工夫の大きな部分。
だいたい、清さんが恐ろしい勢いで食い続ける。それまでのそば食いがフリになる。
面白いのは、清さんは最初から蛇含草に頼ろうとしていないこと。あくまでも、自力で勝とうと思っている。
この点にそば食いのプロフェッショナリズムを感じる。
だが「あと1枚」がどうしてもお腹に入らない、架空の世界におけるリアリズム。
そば清は、客の想像力を大いに喚起する。
お腹が膨れ上がり、縁側で休ませてもらって苦痛にあえいでいる清さんの姿は誰の目にも浮かぶ。
これがそのまま、ラストシーンにスライドするわけだ。
サゲ
実は人死にが出る噺なので、あまり詳細な描写はしない。ナンセンスで終わらせるのが演者の工夫。
ちなみにこのサゲは、分類するとこうなる。
- 既存の分類では「考え落ち」(ネタを割っている前提だと、「逆さ落ち」)。
- 枝雀分類では「へん」。
- でっち定吉オリジナル分類では「結末至上」。
サゲが決まっていて、そこに向かって進んでいく落語は、世間のイメージとは異なり少数派。
だが、そんな重要なサゲにも、いただきが欠かせないということが証明できたのではないでしょうか。
「飛躍」という要素も注意していただければこれ幸い。