用賀・眞福寺落語会3(下・柳家小ふね「粗忽長屋」)

粗忽長屋というものは、マメでそそっかしい八っつぁんと、無精でそそっかしい熊さんを描くもの、のはずだ。
だが小ふねさんに掛かると、二人とも同じ系統の粗忽の分身である。
二人は主観が強すぎるのに、しかし分身から相互の働きかけにより、ちょいちょい現実を見失う。
見失ってもあまり気にしない。しろよ。
長屋に帰ってきて、「熊、いるか」「熊は誰だ」「お前だ」「そうだ俺が熊だ。お前は誰だ」みたいな、シュールな会話を繰り返す。
たぶん、シュールさの追求が演者の目的だったら、その作為について客は腹を立てるかもしれない。誰がやったとしても。
小ふねさんは、ただただ軽妙に、カオスの度合いを増していく。

二人の住む世界は、すでに十分現実との接点を失っている。
そのため、死骸を引き取りに行ってからはぐずぐず時間を掛けない。この噺に欠かせない(と誰でも考えるはずの)町役人すら、「もういいです。持ってってください」と言って舞台から消えてしまう。

粗忽もので一番難しい噺を、現実との接点を切り離すことによって解消する荒ワザだ。

最後は、いかにも不思議そうに「抱いてる俺はいったい誰だろう」と言うのではなく、ちゃんと客のほうを向いて言う。
「粗忽長屋でした」と言って締める。
それはそれで、流れからすると斬新に映るんだ。

とにかくたまらん人です。
「変わった落語」と評される人はちょくちょくいるのだが、小ふねさんのように自覚的、意識的なズレを手に入れた人はそうそういない。

トリは権之助師。
小ふねさん、草津温泉の話してましたね。私、一度呼ばれたことがあるんです。
三食温泉付きで仕事は短く、よさそうなんですけど、結構大変です。
まず、バスが出るのがバスタみたいないいところじゃありません。ビルの裏口みたいなところから出ます。
そして、食事するとしたら夕方の落語の前にするしかないんです。結局、終わってからカップラーメンです。
お風呂も、お客さんのいない時間しか入れませんし。
そして会場です。
どんなところかというと、新宿末広亭を想像してください。思い浮かびましたか。
この末広亭の、真ん中の椅子席が湯畑です。コの字に囲む桟敷だけが客席です。
お客さんからは、湯気でよく見えません。

今は草津温泉、芸協だけでやってるが、初期の頃は権之助師も呼ばれたようで。

今日はお菊の皿に、粗忽長屋にと死人が出てますね。なので「らくだ」します。
いや、私らくだやるって言ってるのに、粗忽長屋出すんですよ。

笑ってしまった。スタジオフォーの小ふねさんの会に行ったとき、ネタ出しらくだの後に粗忽長屋やってたから。
しかも、「お前がやったのか」というギャグを繰り返して。

それはそうと、個人的に最近、ハイペースでらくだを聴いていて、またかよと思ってしまった。
こればっかりは仕方ない。世間で急にらくだが流行ってるわけじゃないと思う。
らくだっていうのは、噺家さんのチャレンジ精神を掻き立てる噺なんでしょうね。
私が最近感じるのは、「露骨な暴力をいかに遠景に追いやるか」「人間のサガをいかに描くか」である。

権之助師のらくだ、爆笑派の看板は下ろして、本格派スタイルだった。
一昨日書いたとおり、らくだについても「人間の恐怖」の描写を盛り込む。特にらくだの死骸を背負うシーン。
つまり、事象について怖がる側をメインに描くのだ。
暴力を連想させるのは控えめ。
くず屋の災難の描写も少ない。背中の絵を買わされたぐらい。
これ台所おさん師から聴いて、オリジナルなのかと思っていたが、ある演出なのだな。

権之助師独自の工夫も見られる。
師にとっては「くず屋の御難を楽しく描く落語」ではないだろうかと。
くず屋は、1日の最初にらくだの兄貴分に捕まってしまう。こんな災難もないもんだ。
だがくず屋、その感情に抜け道がある気がする。
どこかに、現実を達観している様子があるのだ。そう考えると、「かんかんのう」や、八百屋のくだりがよく腑に落ちる。
災難は災難として、どこかに受け入れる気配がある。
最近思ったのだが、落語というのは「御難」そのものを楽しむところがちょっとあるなと。小遊三師の「船徳」で気づいたのだが。
「御難の中に楽しみを見出す」というより、こんな御難もうそうそうないだろうから、主体的に味わうことにしようという感じ。
かんかんのうで大家が困るのを楽しむ気配はあるが、それよりもむしろ死骸を背負わされるという経験のほうがトピックスだったのでは。

後半もあった。髪の毛むしったり手脚をボキボキ折ったりはない。
落合の火屋に向かうくだりは、そんなに目立つところはなかった。
正直、くず屋が豹変するあたりでお腹いっぱいになった。

今回も楽しい眞福寺落語会でした。
最後、鳴り物が入るのを権之助師が制して告知。
今度は9月だそうな。
誰と組むかは決まってないのだろうが、恐らくまた文治師じゃないかな。

このすばらしい会に3回来て、唯一いけないなと思う客の作法。
一席終わった後の常連の拍手が、ちょいとばかり早いんだ。
早すぎる拍手というものは、サゲ付近で、手を叩こうと準備してないといけない。その自意識が障る。
ほんの1拍でいい。間があればいいのになあ。

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作成者: でっち定吉

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