自虐については、一度書いたことがある。
噺家の自虐について、第2弾。
先週の笑点(地上波と特大号)を観ていて思ったのだが、各メンバーの自虐がますます冴えわたってきたなと。
好楽師など、すでに「適当にやって早く終え、一杯やりたい」というキャラは以前からあったが、そこにさらに「手を上げない。答えない」という新たなキャラが定着してきた。
これも、ご本人が受け入れて活用していることで輝くのである。
木久扇師も、徘徊老人ネタが冴えている。
小遊三師も色男で売ってた頃にはなかった、「小便が近い」「立ってすると叱られる」ネタがウケている。
この人の場合、昔から「小銭拾い」「泥棒」など、自虐の要素をかねてより積極的に活用していたが。
一之輔、宮治の両師については、自虐はよく吐く(人気が言うほどではない、など)けど、まだ本業のマクラと同じやり方。
まだ、自分自身の面白さに向かっていない気がする。
ところで、裏廻しでメンバーを取り仕切っているたい平師も、現在の自虐年寄り側に行くタイミングを狙っていると私は睨んでいる。
何年か後、今のシルバーメンバーが抜けた後で、ちゃっかりそちらの役割に替わっているに違いない。それも、驚くほど自然に。
その際、裏廻しはもうやめ、昇也師がバトンタッチしているという見立てはどうですか。
そして師匠がた、誰かを持ち上げるための自虐でもない。
「俺を見て優越感を味わってください」ではないのだ。自虐の中でも、最も高度な性質。
改めて、一流どころの自虐は楽しいなと。
好楽師や木久扇師は、大きな一門を作り上げているが、弟子たちもまた早い段階から自虐をマスターしている。
落語教わるより、自分を笑う姿勢を教わるのが先。
弟子たち、最初の頃は師匠をいじっている。そして段々、自分の師匠を笑う行為を、自分自身を笑うことにスライドしていく。
美しいではないか。
桃花師が司会を務めた女流大喜利で、行き遅れだのなんだのとネタにしていたのは、地上波の師匠たちと比べるといかにも卑屈である。
自分を笑おうという決意に基づいて笑うと、こうなってしまうのであろうか。
さて地上波のほうにも、自虐ができなかった元メンバーもいる。ご存じ三平師匠。
今思えば、ヘタだのつまらないのと散々だった三平だが、その核心部分は自虐ができないことにあったのではと。
三平が自虐をこなせなかったことは、すでに書いている。
三平は自虐もどきをしていただけ。海老名家の面々をいじるのは自虐ではない。
「海老名家のゴリ押しでヘタだけどここに座ってます。宮治くんどーもスミマセン」ができていればよかったのに。
「三平はプライドが高く、自分を笑えなかった」
という振り返りになるのだが、よく考えるとちょっと違うかもしれない。真相はこう。
「三平は、自分をどう笑ったらいいのか、自分のどこに笑われどころがあるのか理解していなかったし、できなかった」
ということだと思うのだ。つまり、プライドの問題以前。
今の笑点メンバーの自虐を見てつくづく思うのは、みんな楽しそうだということ。
なにも、お茶の間の人々を楽しませるため、意に反して自らを笑いのネタにしているわけではない。
自分自身の面白さがわかっているから、そうするのだ。
自分自身の面白さを理解していない芸人が、自分を笑えるはずがない。
面白さは確かに少なめではあったが、全然ないことはなかったと思う。「サラブレッドなのに古典落語がまともにできない」という攻めどころは少なくともあった。
「美人の奥さんがいる」ネタで誰が笑うものか。
笑点メンバーに限らず、人材の育つ一門には楽しい自虐が溢れている気がしてきた。
他人をあざ笑うより、先に自分を笑ってしまうほうが健康だし、いかにも出世しそうではないか。
たい平師の弟子のあずみさんも自分をよく笑う。たい平師にも、楽しい自虐の精神が溢れているからだ。
反対にパワハラめいた一門には、自分を笑う感性がない。
自分を笑えないと、妬みが溢れていくことも。
演者の失敗談も悪くないのだけど、失敗談はたまたま。
それより、失敗談をする羽目になる自分自身のちょっと心棒の狂った性質を楽しく語れると、相互にハッピーな気がする。
いい自虐は、人を巻き込んで幸せにする。
悪い自虐は、人に卑屈さを分け与える。
そういう結論です。