林家三平はなにがダメだったのか(下)

昨日、ナイツ・ザ・ラジオショーのゲストに三平師匠が出てきた。
この番組のゲストはみな芸人。比較して、決して面白くはなかった。あまりオチのないライザップの話を延々と。
それはそうと、喋りまくる三平を久々に聴いた気がする。
今後はラジオをやりたいなんて言ってた。実現しないとも、ファンがまるでつかないとも言わない。
実現しても私は聴かないが、本業や笑点よりは、フリートークにずっと適性がある。ゲストそっちのけで喋りそうな気はするものの。
ちなみに、笑点辞めた後、正蔵師のように落語に専念するわけではないんだそうだ。まあ、専念しようとしてもその場所はないのだが。

さて今日出す結論は、「林家三平の大喜利も、高座も暴力的」である。フリートークを聴く限りそんなことはないので、本業の方針が間違っているわけだ。

一線越えてこちらに来ないで

客が緩いものを期待している状況で、いきなり強い圧を向けてくる三平。
その作法が理解できない視聴者(客)は、とりあえず手持ちのボキャブラリーから「面白くない」「下手だ」というワードを使って理解する。
ただ真に思うところは、「やだこの人、なんでこんなに迫ってくるの? 近寄らないで」である。

先代桂春團治は、あまりよくない客の前でやらざるを得ないとき、客との間に一線を引き、その内側できちんとした高座を務めたという。
一線を引いてしっかり演じていると、線の向こう側にいた客の一部が、徐々に線を越えて演者のほうにやってくるのだと。
最終的には、場内一体になった感動の高座が生まれたこともあったのだ。笑福亭鶴光師が、喬太郎師の番組でこう語っていた

もちろん圧の強さがウリの人もいる。3日前に取り上げた、期待のホープ桂竹千代さんとか。
だが、考えなしに圧が強いなんて許されない。
三平の大喜利も高座も、線を引いた客のほうに攻め入ってくるもの。貞子か。
これが暴力だというのである。
圧の強い代表、三遊亭圓歌師も、よく観察すると実は客にギャグを投げつけてはこない。すべて客に、能動的な意思に基づき、拾わせている。

笑点の緩い作法を、いや本業の落語だって大部分はそうあるべきものだが、ついにマスターできなかったのである。
たぶん、不安なんだろう。ウケに自信がないので、畳みかけてしまう。それが完全に裏目に出ていたのだ。

キャラのなさと自虐

最後までキャラが未確立だった三平。
本人としては、かろうじて「自虐」に活路を見出したかったのではないか。「仕事ない」自虐の好楽師がいるので難しいのはあるとしても。
ちなみに落語において、自虐は危険なアイテムである。

参考記事:「自虐」警報

それでも、自虐が確立してしまえばまだよかった。
三平がやっていた自虐というと、「海老名家はこんなにひどい」である。これは人のことを言っているだけで、自虐ではない。
そもそも具体的エピソードも薄かった。
真の自虐とは、「海老名家のゴリ押しでここに座ってますが、ヘタクソでどーもスミマセン」である。ここまでできれば立派だった。
木久扇師が、自虐ができれば一人前だと見抜いて、一生懸命三平ヘタクソネタをかぶせてくれていたが、拾えなかった。そもそも真の自虐でないから、噛み合っていない。
木久扇師も、バカキャラを自虐にもずっと使っていた。最近では徘徊老人ネタまで入れている。
自分を笑うことができなかった三平。ハタからは笑うしかない存在なのにも関わらず。
前述のラジオでは、中央の経済出てるからそちら系の番組とかやりたいなんて言ってた。自覚がないなあ。

声が悪い

「声が悪い」は、「滑舌が悪い」ことを言いたいわけではないので念のため。
滑舌は昇太師も十分すぎるぐらい悪いし、故人だが師匠の柳昇、兄弟子の昔昔亭桃太郎師も、もうめちゃくちゃな滑舌。
でも、三人とも本当に面白い。
三平の場合は、スラスラ口が回らないと成り立たないキャラなのに滑舌が悪いので、聴いて不愉快になるわけである。

噺家にとって声は最大の武器。
本当はそんなに上手くないのに、声のおかげで気持ちよく聴かせてくれる人だって中にはいる。
三平の声は、不明瞭ということもあるが、こもって抜けてこない。それを補おうと、大きく強く、しかし単調な声を発する。
その結果、一本調子が加速してしまう。
声は大事。だが例に挙げた人たちを見てわかるように、しょせんは一つの要素に過ぎない。
ただある種の、ハンデではある。ハンデをなんとかしようとは思わなかったのかな。
少なくともいえることは、ハンデを克服しようとしての圧の強さは、まるで間違っている。
兄の正蔵師はこの点方向性が見事だった。正蔵師も、小朝師にギャグにされ続けてきたように決して滑舌よくないのだが、師は朴訥に語ることで、客に届けるすべをマスターした。
自分の個性にあった高座を務めているので、客に違和感がない。

暴力的体系の導入

昨日書いたジョブチューンの話は、唐突だと思われたかもしれないが、体系を守る必然性というテーマでちゃんと回収します。

三平が、長年かけて築き上げた笑点の体系を破壊しがちなところはおおむね同意が得られるだろう。もちろん、破壊して面白ければ賛否はともあれ、価値があるのだけど。
「とにかく上手いことを言おうとする」のは、既存の体系にはなかった。そういう番組ではない。
体系を無視するのも暴力。強い圧で客に迫ってくるのはさらなる暴力。
だから視聴者にとっては、単に「三平嫌い」では済まない。「許せない」のである。
やらかしたダメージは、今後の活動についてもずっとついて回るだろう。視聴者にとっては、不祥事を起こしたタレントと同レベルだから。
とにかく自分の暴力を自覚しないと、今後もなにも始まりますまい。

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作成者: でっち定吉

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