大吉原落語まつり その2(三遊亭兼好「湯屋番」は「ラジオ焼き」である)

この日の兼好師、マクラから所作が爆発。ビジュアルでも楽しめる総合芸術に進化している。
よく、左手でもってガッツポーズっぽい所作が入る。
口がスラスラ回り、動作もまたスラスラ。口と身振りがシンクロするのでトリップしてくる。

湯屋番という噺、2016年にブログ始めてからわずかに5席目で、その少なさにちょっと驚いた。
聴いている気がするのだが、テレビラジオでみたい。上方でも最近は林家菊丸師など手掛けている。
冒頭が同じ紙屑屋の印象も混じってるかな。好楽師は紙屑屋だし。
湯屋番は菊之丞師のイメージが濃厚。

さて、兼好師の湯屋番には驚いた。
バージョンが違うなんてレベルではない。明らかに、中身を新規に、自由に作っている。古典落語も創作力は必要なのだが、そのいい例。
自由に作った中身を、昔からあるバージョンのようにスラスラ語るのだから、こりゃたまらない。
古典落語のガワだけ活かし、中身が自由というこの落語の作り方が、今年に入って気になっていた。
きっかけは、ラジオの「上方落語をきく会」での、桂南天師(ちりとてちん)。
あとは現場で聴いた若手で、立川志のぽん(権助魚)、桂笹丸(猫の皿)。
パロディや、改作落語と違うのは、あくまでも古典落語として演じること。

兼好師はもともと「花筏」など創作たっぷりの人だが、完全に自由に作っているなと感じたのは、この湯屋番が初めてだ。
この概念に、言葉を与えたいと思っていた。
昨日出した「ヒルハラ」もそうだが、「スタンプカード芸」とか、「ネタ帳ドレミファドン」と同様、言葉を与えるとイメージがつかみやすくなる。
「古典落語のガワ」という連想から、変わりたい焼きみたいなものを考えていた。でも、まずそうだなと。
たい焼きじゃなくて、たこ焼きならどう? たこ焼きの中身を入れ替えたものというと、「ラジオ焼き」。
ラジオ焼きご存じ? いや、知られていないほうがむしろいい。たこ焼きの先祖。
大阪に「会津屋」というたこ焼き屋がある。アクアシティお台場のたこ焼きミュージアムでも食べられますがね。
ここのラジオ焼き(会津屋では「ラヂオ焼き」)は、今でも有名。たこ焼きのできる前の食い物で、中身はスジコン。
たこ焼きとはガワが同じだが、中身が違う。そして、ラジオ焼きの中身、現代では好きなように作っていいと思うのだ。
落語の黎明期においては、創作力が今以上に重要だったことを考えると、先祖返りの名称もいいのでは。

今後でっち定吉ブログにおいては、既存の古典落語のイメージを利用し、中身を自由に作るやり方を「ラジオ焼き」と表現することにします。
ラジオ焼きのラジオとは、ハイカラの象徴だったようだ。
浅草の電気ブランの「電気」も同じ時代の空気をまとったワードのはず。

さて、兼好師の最も旨いラジオ焼き。誰から教わったにしても、原型はもはやとどめていまい。こんなの。

  • 若旦那が寝床から出てこないくだりなどなし
  • 居候先のおかみさんのくだりもなし(!)
  • 居候先の主人が仕事に行けと言うときには、若旦那はすでに隣町の湯屋で働く気マンマン
  • 若旦那は、湯屋の若いおかみさんを狙い、湯屋の後釜を狙っている(主人はじきぽっくり逝く予定)
  • 居候先の主人が書いてくれる添え状の封筒を巡る、ごはんつぶのギャグ
  • 湯屋の主人が「名代の道楽者」と若旦那に声を掛けると、そうじゃないと返事する、既存のものを作り変えたオリジナルギャグ
  • ひょっとこ刺青の客にお釣りを返す仕事がある(昔あった型だったか?)
  • 番台にはわりと簡単に上がれる
  • 番台から客にヤジを飛ばすくだりもなし
  • 客に妄想を遮られた若旦那、勝手に主人が死んだことにしてしまう。
  • 若旦那の妄想と、湯屋の客のツッコミの距離が近い(割と頻繁に入れ替わる)
  • 主人が帰ってきてサゲ

この、既存の湯屋番と似ても似つかない落語を、快適なテンポと所作入りで演ずる。
そして、湯屋番の肝にも思える多くの展開、クスグリを、あっさり捨て去ってしまう。
捨てたものより、兼好師が持ってきたギャグのほうがはるかに面白い。
捨てなかったのは、煙突小僧煤の助のくだり。これは芝居仕立てでやりたかったようだ。

ギャグというのは、創作力の半端な若手が手掛けるような、部分部分の面白さを狙ったものではない。全体を通して芯が通っている。
たとえば若旦那は、とにかくまっすぐな人。つまり自分の欲望(女湯を覗きたい)を隠さないキャラ。

若旦那の妄想は、完全に切り取られて描かれるのが普通。
そして湯屋の客のツッコミは、場面転換として描かれる。古典落語に疑問を持たないと、それが当たり前。
だが噺にじっくり迫った兼好師、別のやり方を開発。
若旦那がボケると、すかさず観ている客がツッコむ(解説を入れる)のである。
なるほど、漫才・コントに慣れた現代の客にはこちらのほうがわかりやすい。「妄想男を見守る二人の会話」なんてトリオのコントにあるでしょう、きっと。
しかも、若旦那が妄想で演ずる所作の解説まで入るのだ。
しかし、落雷で失神した女を抱きかかえる若旦那のシーンは、湯屋の客たちにはわからなくて首をひねる。
ちゃんとアクセントがついてる。

いや、すごい。
どんなに工夫したって、面白くなければ価値がないが、既存のものより面白い。
創作力だけでなく、構成力、演出力、すべてに長けていないとできない、素晴らしい古典落語でした。

続きます。

 
 

作成者: でっち定吉

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