昨日のネタ記事がアクセス多かったので、今日はバランスとって地味な続き物で。
とはいえ検索にはよく掛かるシリーズであって、当初少なくてもだんだんアクセス数が増えていく。ありがとうございます。
仕込み落ち
落語の古いオチ(サゲ)分類は、破綻していると桂枝雀は言った。
言わんとするところはわかる。
分類しているはずなのに、着目するポイントが確かにバラバラ。
- サゲに触れたときの感想による分類・・・考え落ち、逆さ落ち、間抜け落ち、ぶっつけ落ち
- サゲへの持っていきようを観察している分類・・・とたん落ち、とんとん落ち
- 形式に着目している分類・・・地口落ち、しぐさ落ち、仕込み落ち
ここまでかろうじて分けてみたが、この中ですらバラバラ。客の感想に着目してみたところで、その方向性はバラバラ。
最後の「形式」すら別に統一されていない。
サゲの言語であり、動作であり、作業であるという、バラバラさ。
では、理屈を練り上げたインテリ、枝雀の新たにこしらえた分類(ドンデン、謎解き、合わせ、へん)は理屈に適っているのかというと、全然そうは思えない、
ドンデン・謎解きと、合わせ・へんはサゲを眺める視点が違う。これは繰り返し指摘している。
そんなわけで、私自身も信用しない古い分類だって、つつけば十分に面白いのだった。それに古い分類は、客の噺を聴いた際の心理を分類するという点では、意外とピンと来る。
仕込み落ちも、分類の指し示す方向性は他と違う。
これはサゲを観察して得られる分類ではなくて、サゲのために「なにか作業をした」という点に着目した分類。
だから「仕込み落ち」とされる噺が、同時に「考え落ち」や「とたん落ち」にも該当することはあり得る。
仕込み落ちの代表、「提灯屋」は、サゲ付近のみ観察すれば「ぶっつけ落ち」ともとれる。
ぶっつけ落ちは、双方で違うことを言い合っていて、なぜか会話は成立しているというもの。
ただ客の心理的には、伏線のほうに気が向くわけである。仕込み落ちは、心理の分類だったのだ。
仕込み落ちは面倒だ。
サゲを理解させるために、あらかじめ仕込んでおかなくてはならない。
そもそも、サゲを変えたほうが早いんじゃないのという疑問も湧くところ。
中には、仕込みの不自然さを上回るリターンが得られずに、滅びていくサゲもあるのではないかと思う。ただ、そんな噺、実際には知らないのだけど。
仕込み落ちは意外と効果が高いのだろうか?
ずいぶん前に振られた話がひっついて、客の気持ち的に快になるという構造が肝なんでしょう。
最初から仕込み落ちが必要な噺は少ないのだが、やがて時代の変化につれ仕込みが求められる。結果面倒になったのにもかかわらず、それで格の上がった噺もあると思う。
仕込み落ちの例を。
まず、提灯屋。
この噺は、マクラでなく本編中に仕込みがあるという、極めて珍しい例。
提灯屋に関しては、仕込み落ちでなくなることはあり得ない。
もっとも、噺としてはごくマイナーでもある。
マイナーである最大の理由は、仕込み落ちだからではなくて、現代人に家紋がわからないからだとは思う。
わからなくても楽しいけどね。
町内の若い衆に散々ひどい目に遭う、開店したばかりの提灯屋。
若い衆に知恵を与えてしまった隠居が埋め合わせに高い注文をしているのに、提灯屋は頭に血がのぼって会話が成り立たない。
それで、隠居の注文であるごく当たり前の「丸に柏」を無理やり「すっぽんにトリ」と理解する。
上方ダネを東京に持ってきた際、江戸では使わない「マル」「カシワ」も一緒に導入したため、不自然さが残っている。
楽しい噺なので騙されがちだけど、「すっぽんにトリ」ってそもそもなによ。
結構めちゃくちゃな構成が、仕込みによってなんとなくまとまっているという、ある種の奇跡。
小遊三師や一之輔師で聴ける。
この噺以外は、マクラで仕込むことになる。
この話題、なんだろうと思わせておいて、サゲで回収するのである。
噺を初めて聴く客の心情を考えると、頭の隅にしっかり記憶として残る必要がある。
だが、何の話かわからない以上、あまり強調されても困る。実にさりげなく振る必要があるわけで、なかなか難しい。
「今戸の狐」なんて典型例か。
今戸の狐では、昔のさいころ博打について語っておく。これ自体、客の興味を引くものだ。
それと、四宿のひとつ千住が、「コツ」と呼ばれたことも振っておく。
両方振って、ようやく「コツのサイ」というサゲの仕込みができる。
面倒なのだが、この噺もやはり、勘違いした会話が進行するという普遍的な構造を活かすために、仕込み甲斐があるわけだ。
仕込み落ちで有名なのは佃祭。
サゲに出てくる、歯痛と梨のくだりを仕込んでおかないと、わからない。
この噺など、人情噺の部分はすでに済んでいて、噺を締めるためだけのサゲ。脇役だった与太郎が、サゲだけ主役。
噺をなんとか終えるためのサゲのために、仕込みをする面倒な噺の構造は、とても非効率的な気がする。新しいサゲを作ったほうがいいのでは。
なんて思ったりもするが、まあ今のままでしょう。
不自然ではあるのだけど、客の気持ち的には大団円を導く、スムーズなつながり。
今戸の狐と同じ会話のちぐはぐさが、人情噺の後日談として実に効果的。
藪入りも、ねずみの懸賞の仕込みが必要。
でも、仕込まなくても実はできるし、最近はそうなって来てるんじゃないのか。
実は金坊が泣いて釈明を始めてから、本人の語りでねずみの懸賞を説明することができる。
とはいえマクラで仕込む方式も滅びないと思う。戦前の文化を語るのはムダではないし、いい演者なら他のエピソードと混ぜて、自然に語るからだ。
関係ないけど、ジャニーズの性犯罪が話題になってこのかた、名作藪入りの原型である「お釜さま」のことを思い出して仕方ない。
泣ける人情噺の藪入りはもともと、実際の事件をもとにした噺だったのである。
奉公先で番頭に掘られる坊やが、小遣いをもらっていてそれが藪入りの際に親バレするという、かなりアレな噺。
「山崎屋」も、仕込みなくしては理解不能。
「北国(ほっこく)」とか、遊女三千人とか。サゲは「三分で新造が付きんした」。
面倒だが、二人の会話でもって、双方で違う理解をしているという構造は普遍的で、価値がある。
ここまで見てくると、仕込み落ちの重要さが私にもよく見えてきた。
ちぐはぐな会話とは楽しいもので、その楽しさをサゲで出すためにはそれ相応の労苦も求められるということである。
そして一見労苦に見えても、ちゃんとリターンがついてくるのだ。
明烏や真田小僧も仕込み落ちに含めることがあるが、どうだろう。
これらの噺、サゲのために仕込んでいるとは思えない。多分逆だ。
大門や真田三代記が明確にあったうえで、サゲに利用しただけだと思うがね。
橘家圓太郎師が、わかりにくいサゲである「棒鱈」で仕込みをしているCDがある。
「今、故障がへえった」。
わかりにくいのだが、この噺で仕込む人は少ないようである。かろうじてわかるからか。
というより、地口だからかもしれない。シャレを言ってる事実がわかればそれでいいのだ。
先に見た提灯屋、今戸の狐、佃祭、山崎屋いずれも、ぶっつけ落ちともいえる会話のズレを楽しむ噺であった。
棒鱈は、それとは構造が違うということに気づいた。
圓太郎師も、今は仕込んでいない。
第10回、分類ではなく「唐突なフレーズによるサゲ」に続きます。