立川志らく、落語界の人材難に悲嘆(共感できない)

先日、当ブログの「立川流」というタグを「立川流の困った人たち」に名称変更した。
すでに、困った人たちにしかこのタグを使っていなかったためである。
それ以来、タグへのアクセスが非常に増えたのだが、そのくせ新しい記事がなにもなくてすみませんね。

今日は久々にこのタグを使ってみる。カテゴリは「噺家批判」。
ただ、タグを変えたのち第1号の記事なのに、別に怒っても、困ってもいないのだけど。
悪口を欲している人は、ガッカリするかもしれません。まあ、ちょっとは批判はします。
ちなみに「立川志らく」タグを作ると検索でヒットしやすくなるのはわかっているが、生理的に付けたくならない。

立川志らく 落語界の人材難に悲嘆「漫才やコントに取られてる」「才能のないやつらばっかり」(東スポWEB)

志らくについてまるで書かなくなったのは、書くことがなくなったからだ。
笑点の権威に飲み込まれたのは非常に大きかった。それまでは勝手に落語界の頂点に上り詰めている体で好き勝手を喋っていたし、一切の忖度をせずに喋っていたから軋轢も生んだ。
今はもう、こんな立ち位置から言葉を発することはない。その結果、炎上商法もなくなり、なんでもない人になってしまったのでは。
落語界に飲み込まれたが、いっぽうで落語の評価はまったく聞こえてこない。本当に得をしたのかな?

今回のテレビ出演に伴う記事も、ちょっとどうかなとは思うものの、ひとつの意見としては別にいいんじゃないですか。
ひとりのものの捉え方について「間違っている!」と言ったところで意味も生産性もない。
特定の立場に勝手に立って非難するような性質のものでもなく。

とはいうものの、客観的事実を掘り下げていったときに、やはり間違っているとは思う。
900人に迫る噺家がいる現在、「人材難」は本来的にあり得ない評価でしょう。
母数が増えれば、それに連れて全体のレベルが上がるというのが、ごく普通の帰結ではないだろうか。
その構造に気づいていないのなら、あまり賢くはない。
「母数が増えるにつれて、ひとりずつの質が下がる」なら、ないとはいえないが。でも、全体がアップしてたら嘆くのはおかしい。

まあ、古いファン的な発想だな。昔の名人のほうが上手かったというバイアスは、年齢を重ねれば重ねるほど肥大する。前立腺と一緒に。
談志のいた時代のほうが、よかったに決まっているというバイアスを、弟子も抱えてこじらせている。
そういえば、人間国宝の決まった五街道雲助師について、志らくはコメント出してないのだろうか。

そもそも志らく発言を導いたフリもおかしいのだ。

<山口真由氏は「真打ちの公演を見に行ったが面白くなかった」「真打ちのインフレが起きているのではないか?」>

これは、全落語ファンが「当たり前だろ」と言うと思う。
「真打=落語が上手い」という関係性は、最初からどこにも存在していない。
さらに、「一般的評価が高い=100%面白い」も最初から成り立ちようがない。
「山口真由氏のたまたま聴いた噺家が、口に合わなかった」という一つの事実から、真打制度に関する評価など導きようがない。論理の拡大も甚だしい。
落語に詳しいかどうかと無関係に、それぐらいはわからなくちゃいけないと思うけど。
「面白くなかった」という単なる感想すら、一般化しようがない。「笑えなかった」のか「上手いと感じなかった」のか。
楽しめなかった原因を探るより、「単に芸能に関する感性が低かった」と考えたほうが話が早いとは思う。
そしてできれば、テレビで話す前にまずその可能性を自分で掘り下げて欲しい。

そんな成り立っていないフリから、「若手の噺家みんな下手」を導くのは無理筋もいいところ。
老害って言われるのがオチでは。

さて、それよりなお違和感を覚えたことがひとつ。
「才能のあるやつが入ってこない」のだと。
ン?
落語だって、才能のあるなしは大事だ。それはわかる。
だが、落語の育成システムというもの、誰でも修業すれば一人前になれるというフィクションのもと成り立ってきた気がするのだ。
フィクションというか、共同幻想というか。
もちろん素質がなさすぎてやんわり廃業をすすめられる人もたくさんいた。最近は辞めないかもしれないが。
それでも「師匠について正しい方法で学んでいくとなんとかなる」ぐらいの共同幻想は今でもなお生きている気もするのだ。
才能によって決まる将来性をまったく否定しない私ですら、共同幻想を軽く抱いている気がする。

「才能がある人がお笑いに行く」え、当たり前じゃないの、それ。
クラスの人気者が落語界に来るような仕組み、昔からなかったんじゃないの?
かつてそういうルートが存在し、今なくなったというのなら、志らく発言にも一理ある。
でも落語界、ずっと以前からお笑いの才能のある人がどんどん入ってくる世界じゃなかったと思う。

実際問題、お笑いのセンスはさほどない若者がいるとする。落語はなぜか好きである。
彼は、自分でも落語の世界ではやれるのではないかと考えた。
お笑いのセンスがないのは自覚している。だが、なにがユーモアなのかという感覚はある。
こんなオレ、どうやったら落語界で成功するだろう。彼はいろいろ本を読み、寄席に通って研究する。打ち上げにも参加する。
うんどうやら、気働きができれば、先輩には認めてもらえるようだ。気働きにはまあまあ自身がある。
そして、我が強いとダメだ。気配を消すことができて、しかし必要なその時に備えて師匠方の様子を観察しておくことならできそうだ。
落語も、まずは教えてくれた人の呼吸をしっかり真似てみることだ。真似るだけ真似て、コピーになってしまって嫌がられる前に、個性を探し出す。
ここまでの方法論はもう、入門前には具体的な想定はできない。だが、個性の発揮の仕方ぐらいは、前座の修業中に考えていかないといけないな、そう思っている。

これで十分じゃないですか、落語の志願者は。

二ツ目で、私が末恐ろしいと感じている春風亭朝枝さんは、ここに書いたようなイメージだ。
もちろん本当のところは知らないけども、志らくが言うような、お笑いでもやっていける意味での「才能に溢れた若者」ではないと思う。
朝枝さんほど末恐ろしい人でなくても、「笑い」ではなく落語を追求している得難い人なら、無数にいる。

末恐ろしい前座だと思っている三遊亭けろよんさんの場合、お笑いと共通する才能・センスも感じないではない。
でもやっぱり、方向性が違うなあと。笑いを得る手段が、あくまでも落語を通して初めて存在している感じなのである。

志らく師は、年齢を重ねるにつれ本業の評価の下がる人だと思う。
ご本人にそうぶつければ、喬太郎だってそうだろうって返ってきそう。全然そんなことはありません。
人のこと言ってる場合じゃないと思うのだが。

お笑い界をリスペクトする私が、落語における笑いの質が低くても全然いいんだという主張をした記事。

落語聴いて面白くなったやつは、いない

続編もできました。

弟子を「才能ない」と言ってたら育たないわなあ(続・立川志らく)

 
 

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。

2件のコメント

  1. アップお疲れ様です。
    先日Eテレのスイッチインタビューで立川志の輔師匠が自身の落語観や談志師匠のイリュージョンについての解釈等を喋っていたのを思い出し、同じ脱会後の弟子でありながらこんなにも価値観が違うのだなと今回の記事を読みながら感じました。

    1. いらっしゃいませ。
      志の輔師の落語をよく知っているとはいえない私ですが、SWITCHインタビューはちょっとあとで記事にしようと思っています。
      乞うご期待。

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