古今亭志ん橋師が亡くなった。合掌。
追悼記事を書けるほど、志ん橋師を数多く聴いていたわけではない。
なので師の落語そのものについてではなく、師弟関係を少々。
8日に亡くなった志ん橋師は、弟子が7人。
そこそこ多いのだが、預かり弟子が4人という、実に珍しい一門。
預かり弟子とは、真打昇進前に師匠が亡くなってしまった二ツ目、前座を引き取って弟子にすること。
ほとんどの場合、この意味で使う。
「預かり弟子」について(当ブログ記事:志ん橋一門についても触れています)
志ん橋師の兄弟子である先代志ん五、そして一門の志ん駒が亡くなり、多くの弟子が師匠を喪ったからである。
この一門。
- 志ん丸
- 志ん陽(志ん五門下)
- 志ん好(志ん五門下)
- 志ん五(志ん五門下)
- 駒治(志ん駒門下)
- 志ん雀
- 志ん松
生え抜き弟子より移籍組のほうが多いという、珍しい一門。
志ん陽師はもともと、志ん朝門下であった。
師匠が亡くなったので惣領弟子の先代志ん五が引き取り、志ん五死去によりさらに弟弟子の志ん橋が引き取った。
先代志ん五門下の二ツ目は4人いた。つまりもうひとりいたが廃業している(大五朗)。
多くの師匠を引き取り、真打にした師匠が、ついに最後の弟子(志ん松)だけ、真打昇進を前にみまかってしまった。
駒治師の昇進時と似ている。
駒治師の師匠、志ん駒が亡くなったのが2018年1月。駒治師(当時、駒次)の真打昇進を9月に控えていたところだった。
志ん橋師が引き取り、半年で真打の披露目を迎えたのだ。持ち出しだけで大変だったろうにと思う。
いっぽう生え抜き弟子、末弟の志ん松さんの真打昇進が発表されたばかり。
来秋までまだ1年間あるので、移籍しなければならない。
これは普通に考えて、兄弟子であり師匠の惣領弟子である、志ん丸師が引き取ると思われる。
ちなみに志ん松さんは前座時代「きょう介」だったが、先代きょう助(字が違う)は志ん丸師。
もちろん志ん松さんご本人の希望もあるので、他の真打が引き取る可能性もあるが。
ただ、関係ない一門に行くのはないところである。
志ん橋師は、志ん朝の2番弟子である。
入門時24歳になっていたので、遅いなと難色を示されたという。現代からすると、ごく普通の入門年齢だが。
あるとき、師匠・志ん朝と旅に出た。旅とはもちろん仕事。
志ん橋師、当時の志ん太は、電車で移動中にタバコが吸いたくなった。
前座は喫煙御法度。みんなこっそり吸っていたようだが。
隣で師匠は寝ている。
志ん太、1本だけと決めて、こっそり吸う。
師匠の様子をうかがうと、まだ寝ている。もう1本吸う。
しかし師匠は先刻お見通し。でも、見つけると破門しなければならないので、寝たふりを続けたのだという。
こういうのは、「あのときお前な」と後で笑いながら言われるものである。
志ん橋師のエピソードは、弟子から意外と聴いた。
当代志ん五、駒治、志ん雀の各師から。
志ん五、駒治の両師は預かり弟子であるが、それでもなお語りたくなるものがあったようだ。
スキが大きな師匠はありがたい。
常に張りつめている師匠では、弟子もくたびれる。
真打になる前に師匠を喪った志ん松さんには頑張っていただきたい。
神さまみたいな師匠に一度破門されたという人。
昇進時に志ん橋襲名というのは、一般論としては十分考えられるところ。継ぐと7代目となる。
普通は三回忌が済んでから名前が空くという感覚だが、真打昇進のタイミングによっては弟子が継ぐことがなくはない。
志ん五師もそうだ。
来年志ん橋になっていなかったら問題があったからだ、ということではないので、念のため。
(追記)
「志ん橋」を「新疆ウイグル自治区」のアクセントで読んでしまいそうな関西人へ。
「新京極」を、そのアクセントのまま「新京」で切ってみると、「志ん橋」になります。
三遊亭圓生は上野のパンダと同じ日に亡くなってパンダの訃報よりも扱いが小さかったことが、しばらく落語の枕に使われていましたね。ある意味では最も印象に残った落語家の訃報かもしれません。