弟子を非難する志らくを擁護するのはダブスタである

立川志らく 談春とのトークショー見にこない弟子になぜ?「その感覚じゃあ絶対に売れない」嘆息と怒り(リンク切れ スポニチのオリジナルはこちら

 

やたら期待する人の多い、「立川流の困った人たち」です。
ニュースを見て、でっち定吉が書くぞと思った方もおいでかもしれませんな。寄席の連載もちょうど切れたところだし。

Yahoo!に転載された記事は消えるのが早いので、通常は元記事のリンクを張る。今回はコメントのあるほうを。
弟子降格事件のデジャヴかと思うような話。
弟子たちが、数ばかり多くて質のほうの評判はあまり聞かない弟子たちが、「談春×志らく」のトークショーに来ないというのでご立腹。
それはまあ、ある種筋は通っている。前回芝居に来なかった弟子を降格しておいて、今回スルーというほうがむしろ変だろう。
だが、ヤフコメがまたしても変な方向に向かっている。
決して一方的な意見ばかりではないのだが、全般的には「そりゃ師匠を怒らせる弟子が悪いだろ」というトーン。
落語界への知識のない一般人まで含めて、徒弟制度への漠然とした期待に、背く弟子たちはダメだなあという感想が漂っている。

しかし、コメントを付けた人たちに問いたい。
あなた方、三遊亭圓歌のパワハラ事件ではどういう態度取りますか? 人により感想はさまざまだろうけども、「いくらなんでも師匠が悪い」という感想が多かったはずである。
少なくともパワハラ事件について、いろいろ他人のコメントを読んだ私の認識はそう。
圓歌パワハラについては師匠を非難し、今回のちょっとした弟子の不在については弟子を非難する。
それはダブルスタンダードではないですかと思うわけである。

「圓歌事件とは、しでかした程度が違う」という感想はあるだろう。
確かに弟子降格事件のときも、志らくは破門はしなかった。したら世間から非難を受けたに決まってはいるのだが。
だが、私が思ったのは「程度がどう」ではない。
圓歌も志らくも、弟子を支配する了見を持つ点では同じだなと。
「師匠の感覚に合わせない」と言って、弟子を支配する了見の持ち主。
かみさんの間男事件のときに、この了見を指摘する人が数名いた。奥さんを許すと見せかけて、実は支配しているのだと。
私個人も、そういう関係性が前提にあって奔放になるのだと理解したが、これはまあ余計なお世話なので話半分に願う。

トークショーに弟子が来ない。別にいいじゃないか。二ツ目に、師匠に日参する義務なんかないんだから。
そもそもだ。志らくの相手が談春だから来てないのはおかしい? その認識自体もう、意味不明。
トークショーになったかもしれないが、もともと真打披露の口上でしょ?
口上を観にきた人は、まずは演者の弟子ではない。新真打・小春志師におめでとうを言いたい人たち。
来ていた志らくの弟子だって、別に師匠のトークを聴きにきてないと思う。あくまで主役は新真打。

来てない弟子にとっては、師匠が参加するにしても、ひとつのイベントに過ぎなかったのだろう。
これは、師弟の関係がどうという以前の問題。自分の仕事があればなおさら。
落語協会において、さん喬×権太楼のトークショーがあったとして、弟子は必ず来るだろうか?
実は一門の風土的に(あくまでも想像ですが)意外と集まりそうな気はするのだけど。でも、来なかったからと言って、アイツ来ねえな、はないと思う。
やや珍しめの機会かもしれないが、それでも寄席や落語会の日常の中で、飛びぬけて珍しい機会ではないからだ。
談春志らくだって、たまたま共演をしない(それについてはいろいろ意向があるだろう)から比較的珍しいのであって、それでも同じ立川流、寄り合い等で顔は合わせるわけで。

来なかった弟子は、飛んでいって詫びるのだろう。実に陳腐なやりとりが繰り広げられる。師匠が白と言えばカラスも白。
自分たちを談志志ん朝になぞらえるのは痛々しいがまあ譲るとしてだ。談志志ん朝だからといって、絶対聴かなきゃいけないもんじゃないと思う。
というか、トークショーのほうが、日ごろの高座よりずっと重要だと言ってるわけなんだけども、それに異を唱える人はいないのですか?
「伝説の一席」とされる高座はいろいろあるものだ。その場に出くわした人がいつまでも語り継ぐという。
でも、「伝説のトーク」(口上でもいいが)なんて聞いたことないけど。
そもそも今回のトークは、いつまでも人の心を打ち続ける内容だったんでしょうか? ただの昔話じゃあなかったのかな?

落語会ではトークがよく出る。先月の「小ゑんハンダ付け」でも出たし、大東文化大の講演でも対談が出た。
面白いものも、つまらないものもある。ハンダ付けのトークは、相当に面白かったほうだ。
ただ、高座そっちのけで面白いトークというものはない気がするけどな。

なんで、ヤフコメに書き込むみんな、トークのほうが落語より重要という、誤った共通認識から勝手にスタートしてるのかな?
志らくなんて普段から首尾一貫しない発言しかしてないのに。

師弟関係は、師匠に「人格支配」が見られないかどうかをつぶさに見ていただきたい。
支配している人はダメな師匠だし、弟子の資質がどうのと言う前に、当然育ちません。

作成者: でっち定吉

落語好きのライターです。 ご連絡の際は、ツイッターからメッセージをお願いいたします。 https://twitter.com/detchi_sada 落語関係の仕事もお受けします。

2件のコメント

  1. おじゃまします。
    落語家の師弟関係って難しいですよね。どこの馬の骨かもわからない若造を「弟子にして下さい!」と言われて金を貰うわけでもないのに面倒をみる師匠も、高座での噺以外は何も知らないどこの牛の皮かもわからない師匠に弟子入りしてから「こんなはずじゃなかった」と思う弟子も。
    最近の弟子入りは、先に兄弟子たちからリサーチしてから入門する子もいるらしいですが。だから一門が大勢いるところと増えないところが出てくるのかも?
    真打昇進とともに亭号も変える噺家さんは師匠との関係性が?
    まぁ五街道雲助師匠のとこみたいに全員違うところもあるんで一概にはいえないんですけど。

    1. 師匠だろうがなんだろうが、人を支配する人間性はダメだとおもうのです。
      志ん輔、歌る多もそう。
      雷蔵師はわかりませんが。

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