桂しん華さんは、宝塚音楽学校に落ちて落語界にやってきたという。
いやあ、落ちてよかったね本当に。
あの心優しい、ポワンとしたお姉さんがしごきに満ちた女の園でやっていけたとは思わない。
だが落語界にやってきて、うっかり女の園に入ってしまったのは、宝塚を引きずっていたのであろうか。
師匠はともかく、姉弟子たちとの関係についてはまるでわからないから、余計なことは言わないが。
結局そこでもリタイヤして、現在は落語界随一のぬるさを誇る、桂伸治一門でのびのび頑張っている。よかったよかった。
おじいさんの園のほうが、彼女には向いていたわけだ。
宝塚に、心優しき乙女たちがたくさん入学しているのも確かだろう。
思うのだが、その娘さんたちが殺伐とした環境からたくましく育っていくという、こういうストーリーを肯定してしまうからダメなんでしょう、恐らく。
異様な宝塚の環境下において育ち、その後芸能界に入り、関係者に評判がいいのは天海祐希だけなんだという。
結局はタフになるとともに、人としての大事な本質を喪ってしまうのかもしれない。
あ、昇太師匠の奥さんも宝塚だった。すみません。
私は観劇はまあまあ好きなほうだが、こんなことも多々ある宝塚に行きたいとはまず思いませんね。
劇団四季のほうがいいや。まあ、ここも直接的パワハラの宝庫なのだけど。
石丸幹二は知っている。
ミヤネ氏が「若くして閉ざされた世界に入る劇団員たちの精神的幼さ」が原因だとコメントしてたそうだが。
私が思い出したのは、JRA競馬学校。
中卒の子供たちが集められ、閉鎖的環境で育てられる。
ここも女性騎手候補生へのいじめがあり、裁判にもなった。
現在のような女性騎手隆盛の時代がくるまでには、死屍累々がいるわけだ。わりと落語界に似ているな。
もはやWeb上には資料がほとんどなく、検索してもかからないから記憶ベース。それでもいじめ裁判の当時、競馬ファンだった私は結構覚えているのだ。
競馬学校関係者の匿名コメントとして「いじめっ子のほうが騎手になって伸びる」などという、現代視点からは論外のものもあった。
そしてある競馬評論家(といっても、予想屋に毛の生えた存在である。大川慶次郎先生ではない)は、「競馬学校はすばらしい組織である。提訴した元生徒は許せない」なんて書いていた。
まあ、当時の業界、そんなレベル。
いじめの実行犯が吊るしあげられたなんてこともなく。宝塚の(前回の)いじめ退学事件でも、犯人は吊るしあげられて出世を閉ざされたはずだが。
だが、現在の競馬学校、暗い噂は聞かない。一般社会基準でまともになったのではないだろうか。
宝塚の関係者の対応がとても悪いと非難されているが、なに今までこれでやってきたのだからほとぼりが冷めるまで耐えましょうってなところだ。
「今までこれでやってきたから成功」という事実から疑わない限り、なにも変わらない。
軍隊方式のしごきのおかげで宝塚が大きくなったというのは、実証されてはいない。大きくなったのと、しごき文化が根付いているのとは別個の話かもしれない。
しかしまあ、厳しい修業が大事だというフィクションをありがたがる人間がいる限り、まだまだこんな歪んだ文化は滅びはしない。
落語界もしかり。
三遊亭圓歌という人が異常だと認識する落語好きの中にも、「そうはいっても厳しさは必要だ」と考えたがる人はまだまだ多い。
厳しい修業の結果、一般人が生まれ変わって超人になるという架空のストーリーを愛する人の多いこと。
「厳しさ」自体を疑うべきだと言ってるのはでっち定吉だけである。
落語界、一般の芸ごとと比べても、緩い一門が伸びる確率がはるかに高く、そしてずいぶん以前からこれが実証されている。
緩さと厳しさとの対決があるとして、とうの昔に実のところ決着がついている。なのにいつまでも、厳しい修業に期待する、アホなファンは消えない。
NHK新人落語大賞準優勝の春風亭昇羊さんなんて、たぶん本当にゆるゆるの修業だと思う。
落語界、緩い師匠に育てられた緩い師匠が、なぜかいきなり厳しくなるという不思議な事例もあるのだが、昇太師匠はそんなことはなかったようだ。
自分が育てられたように、緩く弟子を育てている。
しかし落語好きは、そんなのより、厳しい修業物語のほうを愛してやまないのだった。
宝塚も、ずっと厳しくあることを期待している熱心なファンがきっと多いと思う。
結局全部、人を支配したいだけの話なんです。
「厳しい修業で立派な噺家になれる」・・・再生産され続けるフィクションを糾弾する
支配したい、というより、自分の価値観やペースに合わせることを強要する、排除する。多様性というか価値観やペースに合わない人を認めないことがあるかと思います。