浅草お茶の間寄席の春風亭昇吉に「共感性羞恥」を覚える

当ブログの「カテゴリ」で最も人気があるのは「噺家批判」である。
今日は批判ではないので「噺家」という無難なカテゴリに。
といって褒めるわけでもなく、批判対象と一緒に心中するイメージ。

浅草お茶の間寄席をTVKで観たら、春風亭昇吉師が出ていた。
田代沙織さんのインタビューにも、なんだか知らないがたまに呼ばれてる。
もっとも3年振りだが。
いつも沙織さんにヘンにグイグイ迫り、インタビューアーを引きつらせていて、距離感のおかしな人だなあと。
テンションの高い高座を引きずったまま喋っている、その様子にかなり引く。
なんとか楽しい、トーク用のキャラを作り上げようと懸命みたい。達成できているようには思えないが。

過去の浅草お茶の間寄席のトークに関しては、こちらで触れた。

春風亭昇吉「柳田格之進」

ちなみに、この記事が昇吉師を当ブログで最大級に褒めたもの。実際、評判よかったとご本人も今回話していた。
これを書き上げた、つまり褒めた当日に国立演芸場の披露目に行き、ご本人も出ていた口上で激しく引いたのだった。
昨日取り上げた羽光師の披露目だったのだが、羽光師はトリの高座のマクラで、口上に上がった同期3人のうち昇吉師にだけ触れなかった。
羽光師のムッと来た心持ちは非常によくわかるし、相手をムッとさせていることに無自覚すぎる昇吉師の心中もわかる。
噺家への私の評価にも、いろいろと歴史があるのです。

さて、タイトルの共感性羞恥とは、X上でよく使われるようになったことば。今日は日本語シリーズでもある。
人が恥をかく様子を見て、自分自身、一緒に羞恥心を覚える心理を差す。
本来は勝手に羞恥を人からもらってしまう、その側の心理に着目した言葉であろう。感じる側が、そのことをネガティブに思うために言葉がついているのである。
「共感性羞恥心」で調べると、この、本来の意味のほうで多く引っ掛かる。
だがSNS上ではもっぱら、「共感性羞恥を与える側」を貶める目的で使われているようだ。こんな気持ちをアタシに感じさせるなんて、こいつめという。
同じことばだが、目的がズレてきている。
今日の使い方はというと、やや本来の意味寄りで。ちょくちょく外れるかもしれないが。

落語界で我が道を行く昇吉師。
たまに彼の悪口を、他の噺家の高座で聴くことがある。
仲間っぽい人が一時いても、自分からすぐ離れる人。陰口は叩かれやすい。
基本ひとりだが、最近は東大の後輩、古今亭菊正さんと会をやったりしてるようだ。
京大卒の入船亭遊京さんも会に呼ばれていた。でも笑福亭たま師とはなさそうだ。
ちなみに落語協会の人との接触のほうが、若干気楽なんでしょう。噺を仕入れてくるのも、もっぱら落語協会の師匠からだと思う。
柳田格之進も、馬石師から教わったのだと。
インタビューでそれに触れる昇吉師、さっぱりわからない話をして、やっぱり今回も沙織さんを困惑させていた。
柳田格之進がよかったので、浅草演芸ホールが本家馬石師がトリを務めた際、柳田格之進をリクエストしたのだという。
それを聴いての寄席の偉い人の感想が「違うな」。
わかりますかこれ?
流れを追うと、馬石師への批判という文脈にしかならなくて戸惑う。本人の自虐ギャグとして語ったつもりらしいのだけど。
噺家だが、トークは紛れもなく下手。

一匹狼であること自体は、私は別に批判はしていない。孤高といえば聞こえがいい。
落語界は極めて仲間を大事にする世界だが、その文化を「寄席の同調圧力」と糾弾できないことだってなかろう。しないけど。
一匹狼がパワハラを受けない世界こそ、理想とも考えられる。
それと併せ当ブログ「取り上げる対象に『提案』(こうすればいい)をしない」よう、最近は心がけるようにしている。
私自身、そうされるのが大嫌いだからだ。この知恵は、意外にもゆたぼんパパから学んだ。
堀井憲一郎氏は最近取り上げた昔の本で、「改善策を付けた批判ほど相手を怒らせるものはない」と書いていた。そうだよね。

折からちょうどこんなニュース記事もあった。

ハライチ岩井勇気、素人の安易な助言に不快感「ストレスを俺に与えているということに気付けよ」(日刊スポーツ)

いろいろ心掛けていてもこのあたりから、一匹狼ブロガーでっち定吉は、落語界の一匹狼に共感性羞恥心を感じ出すのである。
孤高の噺家であることを選んだのなら、柳田格之進みたいな人情噺に力を入れてやっていけばよさそうなのに。実際、そちらには一定の評価がある。
でもなぜか、ストレートなお笑いに強い憧れがあるらしい。落語にだって、お笑い路線でもって一発当てたくて入ってきたんじゃないかと思う。
でも、仲間もいない人が面白いわけがない。新作を作ってもおおむねスベリ気味。というか、スベリ芸に逃げるしかないみたい。
本当は新作あまり聴いていないのだが、マクラから常に漂う違和感は、笑いの世界でなんとかしたい要素に溢れている。
今回は新作が放映され、立証できた気がする。
この人が本気でスベっている(実は希望通り)のを見ると、とても恥ずかしく、いたたまれない気持ちになる。
今回の「安いお店」も、マクラのギャグに自分で手を叩き、「待ってました」とか掛け声入れてるあたりが、羞恥のピーク。
そんなことの可能なキャラじゃないだろう。まず可能なキャラを確立しないといけないのに、テンション上げるだけの方法論でずっとやり続けているようだ。
もちろん本当に上手いんじゃなく、露骨なスベリウケ(裁判する前に半ケツ出した)なんだけど。
スベリウケって本当は難易度MAXの芸だよね。

気象予報士からつながる志らくdisが、実のところ一番面白かった。知識もないのに雰囲気でなんでもコメントする人として斬る。
一匹狼が、お世話になっている一匹狼を上から嗤い、それをギャグとして成立させようとする。
その構図は、やはりとても気恥ずかしい。比較すれば伯山先生は腰が据わっている。

名前を出した羽光師は、かなりややこしい青春を過ごしてきたことを常に明らかにしている。
羽光師に対しては、本人が羞恥に満ちた新作落語を掛けているのに、共感性羞恥など働かない。しみじみした共感、情感のみが残る。
いっぽうで、一生懸命面白くあろうとして、自分で手応えを感じてもいるらしい昇吉師に感じる羞恥心は、耐えがたい。
録画した一席とインタビューを観続けることは、苦行に近い。私の人生まで、振り返ってまるごと恥ずかしく感じられてくる。
なので家内の前で繰り返して見られなかった。月曜日家を出るのを待って、ようやく全体を観なおしたところである。

別に、客が全員引いてるわけじゃない。しっかり笑い声も上がっているし、浅草らしく手を叩く客もいる。
ご本人もきっと手ごたえを感じ、その後のハイテンションインタビューにつながるのだろう。
だが、客席にいる自分を想像したら、いたたまれなくなった。

だがよくよく聴いたら、新作落語のネタ自体は決して悪いものじゃなかった。
これは想定外。
共感性羞恥に浸りつつも、冷静な視点をようやく確保して、ネタのよさを見つけたのだ。
柳家小ゑん、春風亭百栄といった師匠に高座で掛けてもらったら、傑作になるネタ。そんな気が本気でした。
芸協だって、二ツ目の昔昔亭喜太郎さんならたぶんこの噺、語れる。
ハイテンション手法より、常識的な、しかし軽いツッコミ視線を盛り込めば成立するはず。さらにシュールさをちょっと加え。
その機会があるとは思えないけど。
ネタ交換とか、そういう機会はなさそうだ。

突然な結論に突き当たって、今日の記事を締めよう。
こういう噺家も、温かく見守れるようになるのが最もいい解決策な気がする。
でっち定吉も、多様性を実践していこう。みんな違ってみんないい。
スベッたっていいじゃないか。芸人だもの。
実際に、少しはそういう優しい気持ちになった気もします。

作成者: でっち定吉

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