CS無料放送の「按摩の炬燵」が録れている。
画面の左下4分の1が隠れているが、ディスクに落としてしまえば消える。
今後地上波やBSで流れればそちらを残すのだが、どうやらもう流れて、そして録画し損ねたみたいだな。
放送コードも本当に様変わりした。
従来、長いことメディアに流せなかった落語の演目が、次々オンエアされるようになり、喜んでいる。
「唖の釣り」「ふぐ鍋」「心眼」「麻のれん」そして朝鮮人のくだりが入った「代書」などなど。
時代の成熟を感じるのだが、ただ「落語だから許されている」に過ぎないかもしれない。
落語というもの、案外世間で評価が高いものだ。
芝居でもって、子殺しであるとか現代と相容れない要素が、伝統芸能として許されているのと同根ではないだろうか。
差別の糾弾、告発という文化自体が衰退したわけではないので、引き続き注視しないと。
杉田水脈のアイヌ差別など見ていれば、そういう文化がまだまだ必要なのはわかる。
そして最近は、「差別マウント」も増えてきた。「お前、こんなものも知らねえのか。学習してないのが悪い。炎上しても当たり前だ」という。
だが少なくとも落語は、「いまだに視覚障害者をネタにして、けしからん」とは言われなくなった。
そんな人元々いないって? いや、「女性の描き方がひどいから落語は嫌い」なんて人はたくさんいますよ。
それはもう、感性に合わないのだから仕方ないこと。ただ、そういう好き嫌いが、落語を糾弾する正当性になる社会ではなくなったのだ。
現代社会が閉鎖的で居心地悪いと感じる人も多そうだが、私はそう思っていない。
橘家圓太郎師のマクラなんて、「差別に気を遣わなければならないのが当然の社会」という空気そのものをネタにしていて、とても楽しい。
現代社会に責任を負わせる芸人は、単にネタが作れないだけだと思うのだ。
しかし、按摩の炬燵か。
伝説みたいな噺だ。存在ぐらい知っていても聴いたことはない。
You Tubeに文楽、先代松喬のものが出てるから、後で聴くかも。ただ今回は現代社会のまんまん中を生きる喬太郎オンリーで。
盲人の噺は、私は結構好き。
こんな噺を現場で聴いてきた。
- 言訳座頭
- 心眼
- 三味線栗毛
- 麻のれん
あとは、景清がある。
先日、八光亭春輔師の「松田加賀」なんて珍しいのも落語研究会に出ていた。
さて按摩の炬燵だが、繰り返し聴いている。
喬太郎師の人情の深掘りがたまらない。
でも今まで聴いた盲人の噺の中では、気持ち良さが足りなかったなと。
心眼は気持ちよくなくて別にいいのだが。
気持ちよさ不足の理由は、もうはっきりしている。
どんなに按摩さんの日常の楽しみと、酒のようすを丁寧に描いたところでだ。結局は人(障害者)を暖房器具にしてしまう噺。
私も現代人であった。ちょっとこの感覚に合わせるのはキツい。
喬太郎師、なぜ按摩さんがこの役を果たすのか、その背景と必要性を入念に作り上げている。
炬燵にされる本人の同意も得ている。
それでもなお。
調べたら、柳家喜多八師が「幇間の炬燵」にしているらしい。ラジオデイズで販売もしている。
うーん。そっちのほうがいいかもな。
幇間(たいこ持ち)は、落語ではもうテンプレート的存在。若旦那に鍼を打たれたり、鰻を食い逃げされたり、うんこを食わされそうになるのが幇間。
ただし、「変える」こと自体、先人の財産を引き継げていないかもしれない。
新作派として売り出した喬太郎師、実は他の噺家よりも、引き継がなきゃという感性が強そうに思う。
按摩の炬燵を手掛けるのも、復刻落語をやる感性と同じだろう。
昨年久々に聴けた、入船亭扇辰師の「麻のれん」は最高だった。
江戸っ子で、酒大好きで、ちょっと意地汚くて、頑固で、でもユーモラスな按摩が描かれていて、なんだかもうたまらなくなった。
われわれ同様の人間なのである。
ひとりの立体的な按摩が目の前にいて、なんだかグッと来た。
「目が見えないのに、蚊帳からはみ出してかわいそう」というスイッチが入る危険がある噺だが、入念な構成によりセーフ。
今回聴いた按摩の炬燵にも、似た場面、同様の場面は豊富に入っている。
酒に指を突っ込んで量を測るであるとか、目明きのために提灯を点けて歩くが消えていたとか。
それから麻のれんにはない、幼なじみの番頭さんとの友情のエピソードとか。
実に入念に作り上げていながら、最後はもう、テーマ自体が。
ちなみにこの高座の喬太郎師は、咳が多かったな。もう仕方ないんですかね。
ただし、咳をしても不自然でない場面まで我慢しているようだ。