先日久々に新宿末広亭に行き、やはり池袋がいいな、と思って帰ってきた。
人には、それぞれホームグラウンドというものがある。私には、地下2階でひっそり噺を聴いているのがお似合いのようである。
そんなわけで早速、23日に池袋に行ってきました。
ここ3年くらい、落語を聴くとなると寄席ばかり行っている。寄席が好きで、特に池袋が好きだ。
池袋下席(昼席)は2,000円と安いのでさらにいい。
当ブログは、行った席の詳細をレビューする方針ではない。
メモも一切取っていない。白酒師や百栄師の皮肉に満ちたマクラを聴けば、メモを取ろうとは思わない。
それもあるけれど、メモを取っていると、落語を聴くのとブログにアップするのが仕事になってしまうのではないでしょうか?
書きたくなることがあれば、記憶のみに基づいて後から記すことにしている。寄席に行ったら必ずなにかしら書く、という方針でもない。
だが今回は、その方針を破ってネタ帳を出してみます。
予想を大幅に上回る実にいい席で、また個人プレイでない、「これが寄席」だという芸を堪能したので、全体像を伝えたいのだ。
小多け / たらちね
小かじ / 真田小僧
窓輝 / ぞろぞろ
禽太夫 / くしゃみ講釈
ストレート松浦
歌武蔵 / 後生鰻
市馬 / 掛け取り
(仲入り)
白酒 / 粗忽長屋
小のぶ / 時そば
笑組
はん治 / 妻の旅行
メモは一切取らなくても、このくらいはすぐ再現できる。前座さんの名前は、「小里んの弟子です」と名乗ったので再現可能なのだけど。
出た演目について、最近は数日経っても忘れなくなった。たとえば「禽太夫師の『くしゃみ講釈』、権太楼師にそっくりだけど、教わったのかしら」などといろいろ考えながら観ているためだろう。
噺家さんがマクラで言うように、ぼおーと観ているのも理想ではあるが、本当になにも頭に残っていないのも、あとでつまらない。
だが、「メモを取らないという制約の下、一生懸命ネタを覚えておく」というのもいささかバカらしい。そこはまあ、適当に。
池袋下席の主任は柳家はん治師。
悪いイメージは一切持っていないが、寄席の「主任」というイメージで見ている師匠でもない。
比較的地味なこの師匠の席で、入り具合がよくわからないが、三連休初日なので早めに出向いて席を確保。開演時にはすでに満員であった。
満員の客、誰を目当てなのかはよくわからない。もちろんはん治師のご贔屓もいるだろう。仲入り前、市馬師目当ての人もいるだろうし、私のような、寄席に付いている人もいると思う。
ともかく、池袋のお客さんはいつもながら反応がいい。無駄に笑うことはなく、落語がわかっている人が多い。
前回、橘家文蔵襲名披露の際は、後ろにやたら大声上げて笑う男がいてちょっと参ったのだが。笑えばいいというものでもない。
柳家小のぶ「時そば」
さて、落語協会の誇る精鋭陣の中、最初に「ヒザ前」の柳家小のぶ師匠を取り上げる。
堀井憲一郎氏が、ごく少数のファンを集めた独演会をレビューしてから有名(?)になった、幻の噺家、小のぶ師。79歳。
いかなる事情があるのか知らないが、寄席に復帰し幻ではなくなったらしい。
数年前に、鈴本だったか、どこかの寄席でお見かけしたことがある。そのときもすでに幻ぽかったのだが、改めて復活されたようである。
あいにく、その数年前の高座、睡魔に耐えられず寝てしまった。私にとっては一方的に幻になってしまった。
なお、「眠くなる」というのは、決して批判ではないことをお断りしておきます。下手では寝られないのだから
孤高の噺家であるのは確かなようだ。
「内儀さんだけはしくじるな」という、噺家たちが修業時代を語った本がある。
先代柳家小さん一門について、柳家さん吉師が「自分が辞めさせられそうになったとき、先輩の噺家がお内儀さんに、『辞めさせればいいじゃないですか』と言った。その先輩は、師匠から信用されなくなった」と語っていた。その先輩が小のぶ師かもしれない。
先代小さん、久々に一門に顔を出した小のぶ師に「おい、のぶさん、たまには顔出せよ」と、ポンと頭を叩いたという。小のぶ師が「師匠に頭ぶたれたあ」と感激して泣くのを、さん喬師が見ていたという話は当ブログにも書いた。
孤高ということは、寄席のチームプレイにそぐわない人なのではないかと想像させる。
しかし、この人がもっとも難しいポジションである「ヒザ前」を務めている。寄席への貢献度(の低さ)とキャリアを考え合わせると、他のポジションもおかしいが。
「ヒザ前」は主任の師匠のために、寄席を落ち着かせるところである。爆笑など取るところではない。
さらに、「クイツキ」の白酒師が、大爆笑で客席をひっくり返した後でもあった。この後は大変難しい。
小のぶ師、まったく動じずに落ち着いたトーンで語りだす。
直前までわんわん揺れていた客席が、急速にシーンと静まり返った。
昔の屋台の簡潔な説明から、「時そば」を語りだす小のぶ師。
微動だにしない客席。しかし、退屈しているのではない。客がひとりの老人の語りに引き付けられ、食い入っている。
最前まで盛り上がっていた客席が静まり返り、冬の夜、屋台の情景が高座に再現される。池袋の客も、これを味わえるいい客である。
素晴らしいものを見せていただいた。
寄席に背を向け、ひとり活動していた噺家が、どうしてここまで寄席で見事にハマるのか。落語の不思議だ。
「時そば」は寄席でよく掛かる噺であるが、上方の「時うどん」とは異なり、ひとり目の客は仕込みなので笑いはほとんどない。客を飽きさせないのは結構大変だ。
しかし、笑いと異なる要素で引き付ける腕があれば、非常に効果的な噺。
二人目のボーっとした男が、仕込みを回収して失敗していく。小のぶ師の「時そば」、じわじわウケていたが、そこはヒザ前、大爆笑ではない。でも大変楽しい。
たまたま今「まくらは落語をすくえるか」(澤田一矢・著)という、平成元年の本を読んでいる。その中に、小のぶ師のマクラが2件紹介されている。
古今東西の名のある噺家と並び、現代の噺家代表として紹介されているのだ。
小のぶ師のマクラの特徴は、噺の背景の、端的な解説である。解説といっても、時代背景が目に浮かぶ、決して野暮ではないものである。
本の発行年、平成元年というのもずいぶん昔だが、この頃の小のぶ師は、本牧亭で定期的に独演会を催し、若い落語ファンを満足させた人だったらしい。
独演会で、贔屓の客だけを楽しませるのは悪いことではない。だが噺家には、立川流や円楽党も含めてだが、ホームグラウンドである寄席はあったほうがいいと思う。志の輔師には今さら不要でしょうが。
噺家は寄席のワリで生活しているわけではないけれど、寄席こそ生活の場なのだ。
そして私も、落語会では味わえないこういう雑多な楽しみを求め、寄席に出かけてしまう。
柳亭市馬「掛け取り」
次に仲入り前の柳亭市馬師を。
この時季ならではの「掛け取り」を期待していたのだが、叶いました。
先日新宿で、喧嘩だけの「掛け取り」を聴いて大変ガッカリしたのもあって、実に嬉しかった。
また、市馬師の「掛け取り」がいいのだ。仲入り前とはいえ時間の制約はあり、掛け取りの好きなものは「狂歌」「相撲」「喧嘩」までだったが、満足。
個人的には、昨年の「死んだふり」を抜いてでも、もう一種類芸を入れて欲しい気がするのだが、それだと味気ないでしょうか。
市馬師の十八番「掛け取り」、トリで掛けるなら、歌が入るのだろう。
とにかく、「狂歌」「相撲」「喧嘩」の三種で、市馬師ならでは見せ場は、「相撲」である。
掛け取りを迎えるにあたり、カミさんとふたり、永谷園の垂れ幕をもってぐるぐる廻るくだりがやたらおかしい。
「呼び出し」から「相撲づくし」、そして「相撲甚句」。市馬師、「呼び出し」「相撲甚句」が見事な声で、当然のように中手(拍手)が来る。しかし市馬師、噺を止めない。客は拍手したいのだが、噺も聴きたい。適当なところで拍手を止める。
「中手」に関しては、それをもらうためにクサく芸をやることなどないという先代小さんの教えがある。市馬師、それを守っているものか。
でも、声がいいから当然中手は来る。そこで拍手が止むのを待たず、「拍手はいらないよ」という意思表示をしているのだろう。
とはいえ一度、「ガマの油」の言い立てをやって、中手がもらえなかった噺家を、中継で視たことがある。これはあまりにも淋しすぎる。私が客席にいたら、たぶん義理で手を叩くと思う。
中手をセーブするなんていうのは、実に贅沢な噺家だ。
「喧嘩」も、「睨み返し」にも入っている噺の肝であるが、「掛け取り」における喧嘩は、本来「相手が喧嘩が好きなので、喧嘩で付き合って満足して返す」ための道具である。
下手すると、本気で魚屋の金公をやっつけて帰すことになりがちだ。それはそれで爽快感があって面白いのだけど、相手には気の毒だ。
市馬師の喧嘩は、徹底的には本気になっていないのがいい。相手も、喧嘩ができて楽しそうではないか。
噺の中で大きく遊ぶ市馬師。噺の中では相当に奔放だが、昔ながらのマクラから入る先代小さんの進め方は決して崩さない。
噺の枠組みからいきなり遊んでしまっても、これだけの芸、誰も文句は言わないと思う。だが、そこは美学をお持ちなのだろう。「落語」としての制約があってこそ、芸が活きるという考えなのだろうか。
三遊亭歌武蔵「後生鰻」
落語というものは、人を心地よくしてくれるもの。これが基本だ。市馬師の芸、基本に大変忠実。
基本があると、それに逆らう落語も生まれる。談志であるとか。
ただ、そういう反逆以前に、もともと気持ちの悪さを内包している噺がある。例えば「もう半分」。
「もう半分」は怪奇落語とでもいうべき噺で気持ち悪くて当然であるが、滑稽噺なのに気持ち悪さを内包した噺もある。
というわけで、市馬師の前に出た三遊亭歌武蔵師の「後生鰻」を次に。
例によって「ただいまの協議についてご説明いたします」から入る。直前に出ていたのが、本来は「ヒザ」の、ジャグリング「ストレート松浦」先生。
「シガーボックス」の芸を指してだろうが、「最近の磁石の発達はすごいですね」。
歌川広重<名所江戸百景『深川萬年橋』>の、吊るされた亀のマクラに入る。いくらかおあしを出して、亀を放してやり、「いい功徳をした」と思う、その独りよがりの了見を皮肉る。
そこから「後生鰻」の本編へ。
うなぎ屋がまさに捌こうとするうなぎを、通りがかったご隠居が懐から自分の金を出して助けてやる。その繰り返しの噺である。
このやり取りがエスカレートしていく。
マンガチックにトントンと運んでいく、小気味いい話である。ただ、サゲだけ問題がある。
多くの噺、サゲなんてなんでもいい場合が多いのだが、昔からのサゲがないと成立しない噺もあって、「後生鰻」もそう。
マンガ的なやり取りから離れて、客が現実に戻ってしまうとそれは嫌な噺。そこを和らげるため、赤ん坊でなくおかみさんを使う場合もあるが、まあ、大差ない。
噺家の、馬鹿になる度量が試される噺だと思う。
そして、客の度量も試される。本当にイヤだったら、もう仕方ないと思うけれど。
いろいろな噺が出る寄席というもの、バラエティに富んでいればいるだけ楽しい。
仲入り前のひとつ前などという出番においても、それ相応に軽い噺が必要。軽いけど深い、出番にぴったりの噺。
さすが相撲取り上がり、肚の据わった歌武蔵師、堂々とサゲまで進める。噺に疑問を持ったら終わりである。
そして、池袋の客も、しっかりそれに応えて最後までいい笑いを崩さなかった。客を見て選んだ噺でもあるだろう。
桃月庵白酒「粗忽長屋」
ある日(天皇誕生日)の池袋演芸場における、「チームプレイ」について延々と書き連ねている。
「寄席」という空間でのチームプレイ、その最高の成果を目の当たりにした。
落語というもの、個人プレイのように見えてそうではない。東京の寄席には、こうした文化が根付いているのである。
ホール落語もいいですが、チームプレイの醍醐味が味わえるのが、噺家さんのホームグラウンドである、寄席という空間である。
仲入り後の幕が開いて「クイツキ」桃月庵白酒師の「粗忽長屋」を。
一旦落ち着いた客席を、再び食いつかせ、沸かせる役割である。渋い人より、勢いのある人のポジション。
桃月庵白酒師の「粗忽長屋」。まあ、ウケました。ちょっとウケ過ぎたのではないかと思うくらい。
白酒師は、春風亭一之輔師と並ぶ、落語協会の誇る面白古典落語の第一人者である。
白酒師、毒舌マクラを長く振り、何を掛けようかか考えていると客に語っていた。今日の客なら行けると思って粗忽長屋にしたのか。どんな客なら行けるのかよくわからないが。
「粗忽長屋」は、数ある落語の演目の中でも群を抜いて難しいであろうネタ。
「抱かれてんのは確かにオレだが、抱いてるオレはいったい誰だろう」という世界。客が真剣に考えだしたら直ちにアウト。
おかげ様で、幼少の頃から先代柳家小さんの「粗忽長屋」を視ていた私には、この落語世界がもともと染みついている。
寄席というのはありがたい場所で、こういう世界観を受け入れられる人ばかり集まってきているのだ。もしかしたら、後天的には獲得困難な世界観かも。
落語ブームなどというが、落語が本当にブームであり続けるためには、世界観を受け入れられるかどうかが最大のネックになるかもしれない。そういう点では年寄りよりも、若い人のほうが、ずっと入りやすいと思う。
話がそれた。
で、先代小さんが得意にしていたこの噺、今さらこれで客を沸かせるのは大変だ。
談志の「主観長屋」という捉え方は、噺の活かし方としてはある種最適なアイディアだったのだろう。だが師匠を上回る成功を収めたのかどうか。
白酒師といえば、毒舌に加え、現代的なボケで笑わせる噺家さんであるが、「粗忽長屋」に関しては、小ボケよりも大胆なキャラクター造型を持ち込んでいた。
先代小さんが練り上げた「マメで粗忽」&「ズボラで粗忽」というキャラクター造型を上回るには、大変ハードルが高い。
だが白酒師、強引なキャラ設定の成功で、小さんも談志も上回ったかもしれない大爆笑を収めていた。
数年前から手掛けているそうだが、白酒師の「粗忽長屋」、私は初めて聴いた。こんなに面白い「粗忽長屋」が世にあるとは。正直、笑い過ぎて細かいところはみんな忘れてしまいましたが。
落語研究会あたりで掛からないかな。
サゲを大胆に変えて、死骸を抱いてるのを兄貴のほうに替えているのは面白かったが、この工夫で噺の価値が決まったわけでもない。先日聴いた、柳家三三師の「元犬」ほど強烈なサゲ改変インパクトがあるわけではないし。
やはり兄貴分の、周りを強引に改変していくキャラの凄さだ。白酒師の落語の強烈さと、噺家自身のキャラが、兄貴分に丸々かぶる。
柳家はん治「妻の旅行」
寄席は本当にいいものです。今年も通いたい。
ただ、どうしても落語協会の席ばかりに行ってしまうのだけ問題。ホームグラウンドの池袋も、落語協会の席が3分の2を占めているし。
別に、芸協に含むところがあるわけじゃない。好きな噺家さんも大勢いる。
上野広小路亭などの端席、と言っては悪いのだが、あのあたりにも久しぶりに行ってみようかと思っています。
さて、2016年末に行った池袋の感動を延々と書き連ねています。
寄席のチームプレイのすばらしさに、年末に観た映画「ローグ・ワン」がカブったりする。
「スターウォーズ エピソード4」で重要な役割を果たす「デス・スターの設計図」が反乱軍に渡るためには、キャラの立った荒くれ者ひとりひとりの、自分の役割を忠実に果たした結果があったのである。
映画のように、噺家さんが命を懸けているかどうかまでは知りませんが・・・
トリの柳家はん治師匠。
柳家伝来の古典落語ももちろん手掛けるが、この方の最大の個性は「文枝落語」にある。もとの三枝師、当代桂文枝師の「創作落語」をよく掛ける噺家だ。
だが、現代の新作落語を語る中で、文枝創作落語はその中心にはいない。
新作落語のメインストリームは、「古典落語」の根底にある「発想の飛躍」をアイデアで実装したものだと私は思っている。文枝落語や、立川志の輔師の新作落語というもの、「落語」との共通性はもちろん有しているものの、「よくできたコント」というところがある。
別に落語として「価値がない」と言いたいわけではない。ちょっと「落語」の種類が違うのだ。
ちょっと異なる位置にある「創作落語」を、古典落語と共通の世界観に引き入れて語るという、唯一無二の噺家さんがはん治師だと思う。
文枝落語にとっても、これは幸せなことだと思うのだ。「東京の寄席」という、「落語」の中心世界において活かしてもらえる。
さてはん治師、新幹線の中で大きな声で電話をしている大阪ヤクザに注意を挑むという定番のマクラから、「妻の旅行」へ。
古典落語の続いたこの日の演目からすると、トリに来て、少々唐突なつながりにも見える。トリネタというわけでもないし。
だが、噺の種類にバラエティをもたらす貢献のほうが、ずっと大きい。
「妻の旅行」、結局は「あるある」ネタである。
婆さんが町内会で旅行に行くのに取り残される爺さんが、実はどんな心境でいるかという。それだけの噺に過ぎない。
この噺を古典落語と同じように、「寄席におけるリアル」で語るのがはん治師なのだ。
「プロ野球を視たいのに、2時間サスペンスにチャンネルを変えられ、やむなく付き合っていると婆さんが『私、この人が犯人だと思う』と言い出す。まだ視始めたばかりなのに」。
こんなネタを、はん治師が語るとやたらとおかしい。
迫真の古典落語が続く1日を、主任の師匠が軽く楽しく収めた。こんなのも悪くない。
爽快感に充ち溢れ、池袋を後にしました。
またこの日のような、感動的な席に巡り合えますように。