戦争が起きなくても、ある落語の寿命が尽きるということはごく普通にある。
当ブログでこの例としてたびたび取り上げている落語がひとつある。「お釜さま」という噺。
人情噺の「藪入り」の原型である。
奉公に出された小僧が、番頭にオカマを掘られ、その代償に小遣いをもらうが、藪入りの際にその小遣いが親にばれてというひどい噺。
聴きたい?
私はいいです。
噺家も、こんな噺を覚えて掛ける意味があるか? 学術研究的には意味はあるだろうが、現代で客を楽しませられかどうか?
内容を理由にして、永久に闇に葬れという人だっているかもしれない。
内容で葬ることが正義とは思わない。でも問題にする以前に実質滅びている。
ここで表現の自由を再度持ち出す。
「お釜さま」を掛けたい噺家がいて、聴きたい人がいるときに、噺の価値には関係なく邪魔立てしたりしないのが、表現の自由を守ることである。
ことさらに取り上げ、人権侵害のとんでもない落語があるから禁止しようというのが、表現の自由に対する妨害である。
価値観の問題など無用。
「お釜さま」について、志らくはどちらの意見を採るだろう。芯のない男がどう言うか想像もつかない。
その場の雰囲気でテキトーなことを言うだろう。テキトーなのに、自分のロクなものが入っていない引出しから一生懸命材料を引っ張ってきてバカにされる。
さて私の好きな落語というもの、表現の自由を守るために闘うか? 闘わなければならないか?
闘う人がいてもいい。だが、誰のために?
聴く人がいなくなった落語は、誰がどうしなくても、勝手に消滅していく。
ヒモ男がひどい「厩火事」だって、いつ滅びるかわからないと思っている。掛ける価値のほうが高いから残っているが、これを聴いて嫌な気持ちになる人もいるだろう。
私にはなにもできない。「厩火事を守れ」という運動はできない。
はなし塚に埋められた禁演落語は、戦後解禁された。
だが廓噺、女性の人権を損なうものとして、今の時代に改めて消滅しかねない不安は持っている。
だが、誰も禁止しなくったって、聴きたい人がいなくなる時代は来るかもしれない。
そもそも廓がわからない。70代の噺家がすでにわからないのだから。
「廓噺を守ろう」という運動も、私にはできない。価値が残るかどうかは、世間次第。
私にはただ、「聴きたい」と思うことしかできない。
それから、盲人の出てくる落語の演目。
- 景清
- 心眼
- 麻のれん
- 言訳座頭
- 按摩の炬燵
- 三味線栗毛
など。
めったに聴くことはない。それゆえ、掛かると嬉しい。
寄席に目の見えない人が来た場合、これらの噺は掛からない。
落語界は、初めからプログラムに自主規制を組み込んでいるのである。
按摩の炬燵など、按摩さんをこたつ代わりにするというある種ひどい噺である。現代人の感覚的にアウトかもしれないので、そうそう掛からない。私も聴いたことはない。
掛ける機会が少ないということは、商売になりにくいということ。
これらの噺を覚えないのは噺家の勝手。商売にならない噺を覚えないことを、誰も責められない。
落語界というもの、とにかくやたらと気を遣ってばかりの気がする。
「はなし塚」はある種当然の帰結だったのではないか。
反骨精神を落語に濃厚に感じるとしたら、残念ながら聴き手の前提がたぶん間違っている。
忖度はいけないことか? むしろ落語はやたら多方面に気を遣った結果、現代まで命脈を保ってきた芸なのではないかという気すらしている。
だいたい、江戸時代の体制すら、そうそう批判しないのが落語だと思う。
目黒のさんまに風刺を嗅ぎ取る向きもあるかもしれないが、私は感じない。「お殿さまだって人間だ」という噺としてしか、捉えられない。
「紀州」「禁酒番屋」「妾馬」「粗忽の使者」みんなそう。登場人物を魅力的に描く必然性からは当然。
わずかに「たがや」に反権力の臭いがあるか。でも、これだって「なんだか知らないが侍を町人がやっつけてしまう噺」と捉えたっていい。
たがやは誕生当初は、小金を稼ぎ誇りの高かった江戸の職人たちを大いに喜ばせる噺ではあったろうが、それだけで現代には残らない。
時代を超えた普遍性があったからこそ、今に残っているのだろう。
これが落語だ。いい悪いではなく。
そんな落語がいま、隆盛を誇っている。