柳家喬太郎Vs.伊藤亜紗 その2

最初はウルトラマンについて熱く語る喬太郎師。
ウルトラマンネタが、広く受け入れられるわけではないことは喬太郎師も先刻ご存じ。
私だって、嫌いじゃないしリアルタイムで視ていたけど、格別詳しい世界ではない。
だが師は、「ウルトラマンが大好きな自分を人に見せる」ことの面白さを熟知している。ウルトラマンについて造詣が深くない人間も、その誇張された熱中ぶりを見て、楽しむことができるのだ。
柳家小ゑん師のオタク落語に登場する人物と同じものを感じる。日常世界とのずれを楽しむことができればいい。
などといいつつ、私もウルトラ落語のDVD買って、喬太郎師のマニア世界に入りたくなってきました。
男の子は素養があるが、女性だって大丈夫。
喬太郎師のウルトラ落語で、私が生で聴いたのは「ウルトラ仲蔵」。家内なんて、ウルトラマンどころか「中村仲蔵」がわかってないのに、えらく楽しんでいたもの。

もっとも喬太郎師、別にウルトラマンの第一人者として番組に呼ばれたわけではないはず。
徐々に話は、本職である落語のほうに進んでいく。さらにウルトラ落語ではなく、師の新作落語技法に。
そしてさらに落語全般に進んでいく。ウルトラマンは壮大なマクラ。

「純情日記港崎編」の作り方について。
横浜開港150周年記念で、依頼により作った落語である。聴いたことはないが。
港崎は遊郭。
喬太郎師の場合、新作落語の台本は作らない。メモ書きだけである。

番組から一瞬離れるが、台本作るかどうかは噺家によりけりのようである。
SWAの人は、台本としては書かないんじゃないかな。
人から教わる古典落語の場合でも、詳細な台本を書き起こす噺家もいる。いろいろだ。
台本作らない人の場合、言葉をその場で選んで喋っていくので、登場人物の肚から出た言葉になりやすい。そしてアドリブにも強い。
だが作る人がアドリブに弱いかというと、それはまた別。
台本の必要性は、まず噺自体を覚え込むという要素が強いようである。書けば覚えられるわけである。
だからだいたい自筆。
ワープロで新作台本作る人はいるだろうが、古典でこういうことは、普通しないんじゃないかな。

番組に戻る。
「純情日記港崎編」のメモが見開きで映し出される。
台本を書かない喬太郎師にとっては、確定版だそうだ。
途中から始まるものだが、画面を止めてじっくり見させていただいた。

「外人墓地だ」「犬も?」「ポチじゃねえよ」とか、(中華街の)円卓アチャコなんてセリフが確定メモに書き込んであり、笑ってしまった。
これ、いかにも口からつい出たという感じのギャグだが、必須のものなんだね。
TVで映し出されたものなので、ここに書き起こすことに抵抗はないのだが、なんだか喬太郎師に対する公開羞恥責めみたいですみません。
そして、女のセリフは結構しっかり書いてあって、読むと喬太郎師の肉声が聴こえてくる。
喬太郎師、実際の女性とは違うセリフまわしを喋りつつ、つまり演劇の手法で喋っているのに、リアル感を打ち出していくというすごい人である。

聞き役に徹していた伊藤先生、徐々に次々鋭い質問を投げかけていく。
一言一句覚える方法を採っていない喬太郎師について、どうやって記憶し再生するのかと尋ねる。
「再生」というワードが入ってくるところに学者らしさを感じる。
ファンのおばちゃんが、「あなたあんな長い噺、よく覚えたわね」と褒めてくれるというのは噺家のマクラの定番だが、そんなレベルの質問とは違うのだ。

質問に対し、さらに哲学者のような回答をする喬太郎師。
「記憶しない」というのが回答。内容は哲学っぽいが、上から偉そうに言い切ったりしないのがこの人ならでは。
「記憶しないから、忘れちゃう」。忘れちゃうからすぐまた掛けて、練り上げていくのだと。
先生のほうは、最初の高座に掛けるにあたっての、記憶のメカニズムを訊いているので、本当は答えになっていない。でも、面白い。

喬太郎師のこの話を聴き、三遊亭圓生のエピソードを思い出した。こちらの「寄席芸人伝」の記事にちょっと書いた。
若い頃の圓生は、覚えた噺が固まってしまい、一言一句変わらない。つまり伸び悩んでいた。
どうしたかというと、噺を捨てることにしたのだという。新しい噺をどんどん覚えるとともに、以前の噺を封印するのだ。
捨てた噺を、数年経ってから、思い出しながら掛けてみる。すると、固かった噺がふんわりしてきて、毎回違うものになり、ここでしめたと思ったのだと。
喬太郎師の場合は、最初からふんわり覚えておくということなのだろう。

続きます。予定より長くなりそうです。

 

作成者: でっち定吉

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