鈴本演芸場はまだ開かないが、土日にやってくれている配信は実に楽しい。
久々に寄席に出向き、満足した私にとっても。
柳家小ゑん師もツイートしていたのだが、他の配信とは趣がかなり異なる。
寄席としての実績の積み重ねが、画面のこちら側にまで届くのだろう。素晴らしいことじゃないですか。
おかげで、無観客であることがそれほど気になっていない。
土日は生中継を視て、平日はアーカイブで繰り返し視ている。野球も視たいのだけど。
小ゑん師は配信で「鉄の男」を出していた。「下町せんべい」や「鉄千早」(記事はない)と同様、当ブログに流入があるものと思っていたが、なかった。
なんと、「柳家小ゑん 鉄の男」の検索で、該当記事(2件もある)がヒットしなくなっているではないか。
これについては思い当たる節がある。明日以降、稿を改めて別途書きます。
今日は21日の配信、夜席でトリを務めた、金原亭馬玉師について。
配信でトリを取ったということは、実際にコロナで潰れた主任の芝居があったということ。
師は2015年春、10人同時で真打になったひとり。この世代は特に不遇であり、馬玉師も春風亭一之輔と古今亭文菊の二人に抜かれている。
10人同時真打だと、各寄席の披露目で、1日しかトリを取れない。
そんな十把一絡げの物悲しい昇進組からも、達者な人はちゃんと抜け出してくる。あきらめちゃいけないのだ。
馬玉師は10人の中では、出世頭。
鈴本は寄席の最高峰なのだが、そのわりに結構、若手を主任に抜擢する。
10人真打のうち、鈴本でトリを取ったのは、他に金原亭馬治師と、あとは柳家さん助師だけのはず。
馬玉師と一緒に入門して一緒に真打になった馬治師は、今月幻の主任があった。その代替で、28日(日)の夜席配信のトリ。
さて馬玉師のこの「大山詣り」。
実に気持ちがいい一席で、週末にライブで聴いて以来、繰り返し掛けている。
音楽のようなその落語は、何度聴いても耳に心地いい。
何が素晴らしいか。
- 声がいい
- 勢いがある
- 余計なクスグリを入れずに聴かせるのがいい
いかにも馬生一門らしい特質だが、これだけか?
現に圧倒されたからこそこうして記事を起こしているのだが、もう少し実態に迫りたい。子供の作文じゃないんだから。
でも、懸命にその芸を掘り下げていっても、これ以上言葉がなかなか出てこないのも、また事実。
派手な部分がない芸は、「本寸法」とか「いぶし銀」などとしばしば呼ばれる。
どちらも、とって付けたような誉め言葉なので、好きじゃない。
このような形容が非常に似合う、枯れた師匠というものもいないではない。だが馬玉師の高座から得られるのは、もっとずっとくっきり、はっきりしたものだ。そもそも、非常に若々しい芸をつかまえて、地味な形容であるいぶし銀を使うようではファン失格。
なんとか迫ってみる。
馬玉師は、持てる技術のすべてを、古典落語自体が持っている、本来の力に対して注ぎ込んでいるのだと思う。
なかなかこういう人はいないものだ。特に最近は。
最近はもっぱら、わかりやすい工夫を噺に加える人が評価される。
落語ファンなんて、古典落語は聴き尽くしているもの。わかりやすい工夫があれば、すぐに引っかかる。
だが、そんな噺家の代表である一之輔師だって、昔ながらの変えない芸をちゃんと評価する。そうしたものだ。
変えない人は、何の変哲もない人なのか。そうした評価だってなくはないが、わかる人にはわかる。
でも「変えない」ということ自体、決して簡単な、単純なことではないはずなのだ。
わかりやすい工夫のない落語について、「つるんとしている」という感想を持つことだってなくはない。だが、馬玉師の高座はそうではない。
ひとつわかったこともある。
非常におかしな話なのだが、この大山詣りから、冷静に振り返るとあり得ない誤解をもらった。楽しい誤解。
長屋のおかみさんたちが熊さんのつるつるの頭を見て、これなら本当の話なんだと得心するくだり。
この部分を聴いて、「坊主になってまで嘘をつこうとする熊さんはさすがだ」と、私は一瞬理解したのだ。
もちろんそんなはずはない。こんな誤解は演者の狙いにすらない。
熊さんは仲間によってつるつるにされたのであり、自己の意思などそこにない。
でもこの楽しい誤解は、江ノ島に出かけたウソ話が真に迫っているからこそ生じたものなのだ。
落語のストーリーがわかっていて、熊さんが嘘をついているのだとわかっているはずの私が、おかみさんたちと一緒に騙されたわけです。
落語ファンまで騙す馬玉師、やはりさすがだと思う。