柳家喬太郎「小言幸兵衛」

TV落語を愛してやまない丁稚定吉です。「わざわざ寄席に行く必要なんてない。落語はTVで聴いてりゃいい」なんて野暮なことを言いさえしなければ、TVも楽しい。
相変わらずTBSの「落語研究会」の高座は素晴らしいものが多い。放映するかどうか、デキを見てきっちり吟味しているのでしょう。
今日はBSで放映された柳家喬太郎師の「小言幸兵衛」を。
喬太郎師、「日本の話芸」では「ハンバーグができるまで」が流れるようで、そちらも楽しみである。

この演目については、当ブログを始めた頃にちょっと触れてみた
そのときは、「常識を裏返すハイパー妄想大家幸兵衛」に焦点を当てた。
「そういう噺」だという捉え方自体に変化があったわけではないのだが、今回聴いた喬太郎師の「小言幸兵衛」にはなかなかの衝撃を受けた。
ずいぶんと気持ちのいい幸兵衛さんではないか。
喬太郎師の人柄がよく出ている気がする。
新作はもちろん、古典でもしばしば弾けてみせる喬太郎師にしてはずいぶん大人しい落語なのだが、演者の魅力が泉のように次から次にあふれ出してくる。
幸兵衛さんの妄想も、他と比較してそんなにキツいわけでもないのだけどね。
とっておきのギャグがふたつ。

  • 婆さんに「寝る布団出してどうすんだよ。座布団だよ。『ザ・フトン』じゃないよ」
  • 「陸軍省払い下げのサーベル」が家にあるという入居希望者に、「マグマ星人か!」

いかにも喬太郎というギャグで大変面白いが、このふたつ以外は、噺を壊さないようぐっとこらえているのではないかな。
幸兵衛界の最高峰ではないかと思った。
私としては、大変大事だと認識している三人目の入居希望者は登場しない。この噺には「三人必要」なのだという意見については撤回しようと思う。

本来、「気持ちのいい幸兵衛さん」であっていい噺ではないのだ。
他の登場人物にとって気持ちのよい大家であると、話が先に進まないのだから。
でもよく考えれば、店子や新たな入居希望者にとって煙ったいことと、客にとって気持ちのよい大家であることとは両立できないものではない。
「うっとうしいと店子が思うのも無理のない大家だ」という設定さえきちんと押さえているなら、客にとって気持ちいいキャラクターであったとして、それに越したことがないのではないか。
先人の描く幸兵衛さんも、別に客が引くような因業大家だというわけではない。だが、喬太郎師の楽しい幸兵衛さん、まったく迷いが感じられず素晴らしい。

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ちまたでは、面白古典落語が流行っている。
白酒師、一之輔師のように、ギャグをふんだんに入れて、なお噺を壊さないテクニックにはつくづく感心させられる。
先輩の喬太郎師はというと、新作、それから古典でもマクラでは徹底して遊んでみせるものの、先人、特に柳家の噺家さんが多く手掛ける噺においては、いささか遠慮もあるように思える。
完全二刀流で、最初から古典落語にも力を入れている喬太郎師としては、メリハリ付けるのは当然かもしれない。
落語が好きすぎて仕方ないらしい喬太郎師、古典新作問わず、落語のあまねく領域においてその魅力を発散する。ひとりの噺家に、5人分くらいの違う角度の魅力が詰まっている。
噺に対するアプローチの仕方の種類も数多い。噺をいじりまわして換骨奪胎することもするし、場合によってはストレートに演ずる。
そしてこの「小言幸兵衛」、喬太郎師と思えないほどストレートに演じているのだ。オリジナルギャグはごく少なく、クスグリのほとんどは先人の演じてきたもの。
「飴屋ならベトナムだ」なんて。
しかしその噺が、落語を聴きなれている耳に、もうビンビンに伝わってくる。一見じわじわっぽい噺なのに。

うちの小学生の息子も「小言幸兵衛って面白いね」と言っていたが、本当は「小言幸兵衛」が面白いのではなくて、喬太郎師の落語がやたら面白いのである。
「小言幸兵衛」のCDも、そういえばあまり世間に出ていないですね。

落語ファンにも、おのおの苦手な領域というものはあるでしょう。新作が苦手とか、人情噺がダメだとか。
喬太郎師の広い広い領域について、すべてについていけなくても無理はない。喬太郎師のこういう噺は大好きなんだけど、こちらはなあ・・・というのは人によりあるでしょう。
だが、ひとりの噺家の君臨する広大な領域には、ちゃんと一本の芯が通っている。「なにをどう語っても落語だ」という芯が。答えになってない気もするけど。
どの領域に横たわる、どの噺を切っても、喬太郎師の人柄が出てくる。最も保守本流の「小言幸兵衛」を語っても、そこから漂ってくるのは紛れもない喬太郎節。

人柄のいいこの師匠だが、実際の性格はかなり複雑だと思う。陰の面を世間から隠しているなんていうことではない。
喬太郎師の内面には、悪魔のようなディープな要素も含め、複雑なパーツが詰まっているはずだが、外に落語として出てくる要素は、毒が薄めになっていて(でもちゃんと残っている)、そこに人柄のよさのフィルターが掛かっている。
いずれにしても、喬太郎師のすべての領域を楽しく聴けるということは、落語のすべてを楽しく聴けるということだ。それは実に嬉しいことではないでしょうか。

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新作や、ギャグもりだくさんの古典で鍛えた喬太郎師が、その刃を懐に隠し、正攻法で古典落語を攻めている。
隠した刃は、見える人には見える。見えなくても別に構わない。
ベテラン師匠で、派手な人気はないものの、じわじわくるその芸に魅せられるファンが多いという噺家さんは多数いる。私もそうしたタイプで好きな師匠が複数いる。
喬太郎師匠、そういう地味な(いぶし銀、なんて呼ばれる)ベテラン噺家さんの領域にさえこうやって出ていって成果を上げる。
笑福亭鶴光師匠によれば、落語でもっとも重要なのは「スタイル」とのこと。
その、大事なスタイルを何種類も持っているのが喬太郎師。
「二刀流」大谷翔平がマウンドに上がり、いきなりアンダースローで投げはじめ、強打者を次々なで切ったら誰だってびっくりするだろう。そういう感じ。

喬太郎師、高座に上がって「えー十人寄れば気は十色なんてことを申しまして」といきなり本編に入る。それでも31分、意外と長い噺。長さは感じない。

喬太郎師、滑舌がいまひとつという点だけ、ご本人も認める欠点のようである。実際、この噺でも結構噛んでいる。
だから「大工調べ」「がまの油」なんて、「立て板に水」が必要な噺はやりづらい。
でも、「小言幸兵衛」の第一入居希望者(豆腐屋)における、啖呵はきちんと乗り切った。滑舌はともかく、気持ちの入ったいい啖呵。
セクハラ大家にしっかり逆襲して帰っていった。

二人目の仕立て屋は、言葉が丁寧。だが、実は結構変な人だ。
直接、変な人だという描写がなされるわけではないのだけど、演者の肚には、しっかり変な人だとインプットされている気がする。
幸兵衛さんの長話を、別に積極的に聴きたいわけでもないのだけど、いまひとつ主体性に欠け、腰を折ることができない人なのである。
まだ越してきてもいないのに、息子が近所のお花とできてしまう架空の長話を延々聴かされるシュールな状況において、結果的に幸兵衛さんの妄想(遊びなのか?)を、一緒に盛り上げる役割を果たす羽目になっている。
幸兵衛さんの長話を楽しく聴けるのは、仕立て屋が実に適度なツッコミを果たしてしまっているからである。
やはり変な人なんである。
喬太郎師、幸兵衛さんだけでなく、仕立て屋を狙って攻めている。

「スターシステム」という言葉を思い出した。手塚治虫のマンガで、毎度おなじみ「ヒゲオヤジ」「ランプ」「鼻」などのキャラクターが、俳優として様々な登場人物を演じるスタイルである。様々な人物を演じても、根底のキャラは変わらない。
どうしてこんなにストレートな噺で喬太郎師の強い個性を感じるのか、よく観察してわかった。登場人物が、すでに喬太郎落語に繰り返し登場しているからなのだ。
ちなみに喬太郎師は、登場人物を結構声で演じ分ける人である(声色とは異なる)。
喬太郎師の「小言幸兵衛」、師の噺の中ではストレートなスタイルなのだが、幸兵衛さんも仕立て屋も、その声を別の噺で聴いたことがある。
なんの噺で聴いた声かは思い出せないのだが、別に無理に思い出す気はない。
「ひとりの俳優の、演じているキャラクターにかかわらず持っている肉声」が聴こえてくるのである。
喬太郎師の頭の中には、何人かの主要キャラクターというのがいて、そのひとりひとりが入れ替わり噺に登場して、演技をしてみせるのではないかと思った。

作成者: でっち定吉

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