政治を語る噺家

先日、「野暮な噺家、野暮な客」と題して、「粋」と「野暮」についていろいろ書いてみた。
ツイッターにもちょっと触れた。ちゃんと使いこなしている人にとっては粋なメディアかもしれないと。
私も、ツイッターのように粋にブログを書きたいと思う。
ただ、ツイッターは極めて炎上しやすい。
前述の記事を書いたときは知らなかったのだが、立川談四楼がツイッターで炎上事件を起こしていた。記事を後から読み返すと、知って書いたような内容になっていたのだが。
談四楼については、さらにその前、「立川流の傲慢」と題し、字数を費やして批判したところだ。
批判したのは、談四楼の落語についてではない。噺家としての了見のありようである。
その了見が、このたびの炎上事件を起こした。我ながら先見の明があったな。

炎上といっても、バカバイトが冷蔵庫に入って写真をアップするような種類のものではない。
ネットをよく見ていてる私が知らなかった程度なので、大したものでないことはお断りしておく。二ツ目さんのコンテスト不正疑惑よりまだ大したものでない。
だから現に、一生懸命拡散しようとしている人間がいる。
まだご存じない方も多いでしょう。こんな内容。

「台風5号とかけて安倍総理と解く。その心は、長くとどまり全国に被害を及ぼすでしょう」上手いじゃありませんか。私の会のお客が上陸前にそうツイートしたのです。及ぼしますと言い切らず、及ぼすでしょうと和らげるところに知性と品位を感じます。はい、私のお客はレベルが高いという自慢なのです。

なんだこりゃ。
炎上以前に、センスのかけらもないじゃないか。
センスのない客の謎掛けを、無条件に持ち上げて、どさくさに紛れて政権批判をやっつけようという。
といって、私はこの、もう削除されたツイート拡散に乗っかりたいわけでもない。

保守から共産党まで広く分散している、安倍嫌いの人たちもセンスがない。
安倍晋三という人のことを、みんな嫌いに違いないというところからスタートしている。確かに大好きだという人はそうそう見かけないからその点は間違っていないのだが、「安倍嫌い言動」のほうが嫌いな人がたくさんいるのだという点に、まったく無頓着なんである。
「特定の人間が嫌い」というだけで思想を越えて共闘できるわけもない。
世の中には、もっとリアルに政治を捉えている人がたくさんいるのだが。
もっとも、「『安倍嫌い』嫌い」の人も、組織化はされてないから、談四楼の愚文を一生懸命拡散しようとしても空しいようだ。
そもそも、愚文に対して真に怒れる切り口は「台風の被害者に対して失礼だと思わないのか」だけである。特定の思想から、この切り口を根拠に批判しようとしても、それもまた空しい。

まあどちらも野暮なのだが、私が思ったのは、そもそも噺家か政治を語るべきなのか、という点である。

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噺家がツイッターやTVで、政治について意見を表明するというのは、どんな立場であれ違和感が残る。
「アーティスト」と呼ばれる人、とりわけミュージシャンなどが、しばしば政治や思想を語るのとは違うように思う。日本においては勇気が必要とされる行動だが。
ミュージシャンが思想に基づいて音楽を作り、意見を表明する活動をしたとして、それはある種当然でもある。真に語る内容を持っているのか、よくわからないところがあるが。

いっぽう、「政治的思想に基づいて表現をおこなう落語」なんていうものがあるだろうか。あったとして聴きたいだろうか。
昔、インテリ芸人として知られた五代目柳家つばめが「佐藤栄作の正体」という新作を掛けていたそうである。
聴いたことはない。佐藤栄作本人が激怒し、圧力を掛けてきたというのだが、内容のほうは別に特定の思想に依拠したものではなかったようだ。

現代では桂福團治師の息子である、桂福若という人が「憲法改正落語」なんてものをやっていると仄聞する。まあ、松竹芸能も辞めている泡沫芸人である。
泡沫芸人でなきゃ、そんな落語は作るまい。

故・春風亭柳昇は傷痍軍人であり、保守であって日本会議の活動をしていた。
しかし、柳昇はそんな思想に基づいた落語は披露していない。今聴いてもおかしい、柳昇のふわふわした落語は、左から右まですべての人を楽しませる内容である。
社会党から呼ばれれば、応援演説にも行ったらしいし。
そういうのが噺家らしいと思う。

議員であった立川談志は、左翼からは徹底的に嫌われた。沖縄開発政務次官を二日酔い騒動で辞任した事件の際も、沖縄の左翼マスコミからの計画的な糾弾があったらしい。
「公務と酒とどっちが大切なんだ」と訊かれ「酒に決まってんだろ」。左翼にこんなシャレが通じるわけはない。
その談志、過激な言動で信者を獲得していた。
しかし、政治思想に関しては、実のところ相当にニュートラルだったのではないかと思う。談志はシャレのわからない人は相手にしてなかったろうが、シャレさえ理解するなら思想の左右などハナから問題にしていないと思う。

しかし談志の弟子というものには、困った人が出てくる。
談志の存在を包括的に捉えず、部分部分でありがたがっている気配がある。
そして、政治についても積極的に発言すべしと思い込んでいるのではないか。といっても、談四楼・志らくのふたりだけであるが。

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噺家さんは、世相には敏感である。実際に高座で用いるかどうかは別にして、常に最新の情報を取り入れ、消化してネタにしておかねばならない。
政治だろうが社会問題であろうが、スキャンダルであろうが同列である。
マクラで使う場合もあるし、落語の中に入れ事として放り込んでくる場合だってある。
先日も橘家文蔵師が、お騒がせ議員たちのネタを「馬のす」の中の会話に取り入れていて、これは大変楽しかった。
でも当たり前だが、客のほとんどが共感してくれるネタでなければならない。

寄席に行くと、「ロケット団」など漫才師も、楽しい時事ネタを多数放り込んで客席を沸かせる。
しかし、そこに思想に基づく風刺性は感じない。ネタにしたときに面白い(共感を得られるか)かどうかがすべてである。
コント集団「ザ・ニュースペーパー」だって時事ネタしかやらないが、政権批判だけやるわけではない。
「ナイツ」なんて創価学会だが、そんなことをおくびにも出さない。それを戦略的と捉えることもできるだろうが、でも寄席芸人として当たり前のふるまいだと思うのである。

寄席の客には、左右様々な思想の持ち主がいるし、野球のひいきチームだってさまざまである。
そういう空間において、芸人にとってもっとも大事なのは、客に拒絶されないことである。
やはり、立川流というのは少々ネジの狂ったところがある。客を拒絶して平気な芸人がいるのである。
特殊な領域で仕事をしているとそうなる。噺家批判など一切しない、自分のご贔屓のほうだけ向いていればそれでいいのだから。
彼らの出ない「寄席」は、「反骨精神」や「毒」がいきなり通用する空間ではない。
落語協会の噺家など常にそうだが、もっともっと広い場所に出ていくことを考えていれば、客を拒絶などできない。
円楽党だってそうだ。立川流と同じ小規模所帯だが、みな常に広い世界に出ていくことを考えているではないか。
立川流でも、売れる人は当然のようにそうしている。志の輔師など、「談志の弟子」であることもいちいちアピールしない。余計な毒も吐かない。
世間の最大公約数を拾いに行って成功している。
最近の落語研究会で「猫の皿」を掛けていた生志師も、「立川流のハト派」だと語っていた。だから落語協会の芸人さんにも拒絶されない。
落語界全体を意識するなら、そうした態度が噺家さんにとってのスタンダードのはずなのだ。
和を極めて大事にするのが落語界だからである。

改めて談四楼・志らくのツイッターを覗いてみた。吠えてるなあ。
吠えている時点で、もうそれは噺家さんのふるまいではないのだ。噺家失格。
噺家には政治的言論の自由はないのか。そんなことを言いたいのではない。賢い噺家さんは、そんなつまらない自由を振りかざし、客に拒絶される愚は冒さないのである。
志らくなど、落語の評価自体失いかけているのに、なお偉そうにしているなんて愚の極みである。
人のふるまいとして、そんなのも理解できないわけではない。
だが、私は落語が、そして寄席が好きだ。好きである以上、これからも、噺家の本道にのっとった、知性溢れる噺家さんを聴いていきたい。

作成者: でっち定吉

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