落語の「女性語」(下)

「女性語」の利用について、東京の新作落語はどうしているか。
三遊亭白鳥師などは、特に若い女性の描写においてマンガのような女性語を結構多用している。典型的「てよだわ言葉」だ。
だが、この師匠は噺の世界をリアルに語らないため、不自然さはない。それもまた、面白い。
春風亭昇太師も、そんな雰囲気が強い。名作「ストレスの海」もそう。
落語の中で使う言葉と、落語のリアリティとはまた別物だということがわかる。
マンガっぽい落語には、女性語は違和感なくハマる。

林家彦いち、柳家小ゑん、古今亭駒治といった新作の師匠がたの場合だと、出てくる女性の登場人物は、「微妙」に女性らしい言葉を使う。
わりと現実世界のリアリティに近いが、現実とイコールではない言葉遣い。フィクションの中ではもっともリアリティを持つ話し方かもしれない。
大事なことだが、やはり落語の中ではまるで不自然さがない。
現実世界でのリアリティを最初から目指していないためのようだ。あくまでも、落語の世界の中のリアリティを追求する技法なのだ。

ただ白鳥師も、おばさんやお婆さんになると、途端に方法論が違ってくる。
特にお婆さんになると、なぜかいきなり古典落語に出てくる婆さんになってしまう。なんともユニーク。
女性を描く方法論は無数にあるわけだ。

語り手自体が女性だったらどうなるか。
女流の新作派もずいぶん増えた。だが、語り手が女性なら、言葉は自然なものを選んで使うのかというと、どうもそうとは限らないようだ。
語り手が男でも女でも大差ない。結局はおはなしだから。
登場人物が男か女か、描き分けないといけないという意識は、むしろ女流のほうに強いかもしれない。なにしろ伝統の乏しいところで勝負するから。
女性語を強調する話し方を使って不自然さのない女流がいるいっぽうで、女性語多用により、現実からも、落語からも遊離してしまっている人もいる。
今後、女流新作は、この部分に注目して聴いてみたいと思う。

さて最後に、新作落語でもっとも、女性の登場人物がスムーズに語る噺家を取り上げる。柳家喬太郎師だ。
喬太郎師の落語は、芝居っぽいという指摘はよくみられるところである。だがそこで描かれる芝居のような世界は、日常から見たとき、決してリアリティ溢れる世界でもない。
だから、白鳥作の「任侠流山動物園」だって語れる。自作の「母恋くらげ」のような、擬人化の噺もまたOK。

喬太郎師はもともと、落語の中でリアルな言葉を使いたい人だ。
師匠・さん喬であるとか、古今亭菊之丞師などが「喬太郎の落語に出てくるような女」という表現を使っていることからも、そのリアリティがわかる。
この点、昇太、白鳥といった人とは違う方法論である。
ただ、本当にリアルな言葉を使うとなると、女子高生が「食べれないよね」と喋ることになる。だが、こういう「ら抜き言葉」は師は使いたくない。
ではどうするか。師は「食べらんないよね」と言わせるのだ。現実と、日本語へのこだわりを止揚する。すばらしいね。
リアリティにこだわりすぎない、真のリアルがそこにある。

この師匠の落語の女性登場人物の言葉の自然さについて改めて気づいたのは、鈴本の配信で掛かっていた名作「ハワイの雪」である。
主人公の孫娘めぐみは、女性語は一切使わない。しかし、女であることは明確である。
冒頭からいきなり「めぐみ」と名を呼ばれ、わかりやすくする工夫はもちろんある。だが、その後もずっと自然さが続く。
これは、人物の了見になりきっているからこそ可能な芸当なのだろう。
女性らしい言葉を一切使わず、女であることがずっと伝わるのだ。

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作成者: でっち定吉

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