先日、鈴本の配信に登場した金原亭馬玉師を取り上げた。
今度は同門の馬治師を。馬治師も配信の千秋楽に登場し、ラストを飾っていた。
馬治師と馬玉師は、同じ日に金原亭馬生師に入門し、同時に真打になった。
二人揃って実力伯仲という評価のように思う。馬治師もまた、声がいい。
二人とも鈴本でトリを取っているから、その芝居がコロナで流れたことで、揃って配信に登場しているわけである。
馬治師の唐茄子屋政談も非常にいいデキ。のみならず、そこに現代性、同時代性を感じたのである。
古典落語とは、いにしえの舞台を借りて、同時代を語るものだ。
唐茄子屋政談は古今亭の人情噺というイメージ。
実際、馬治師がよかったので、この後で志ん朝や馬石師も聴いてみた。もちろんこれらは文句なく素晴らしい。
だが比較の結果、馬治師から漂ってきた、令和ならではの気持ちのいい空気がよりくっきりしてきたのである。
現代は、「人を傷つけない笑い」が流行っているとされる。
だが本当は、大事な笑いを描くために、なにも他人に攻撃的である必要はないという価値観なのだと思う。
もともとこうした要素は落語の中に豊富にある。先人のスタイルをちょっと変えた馬治師の一席は、ますます落語本来の世界にふさわしくなっている。
冒頭でいきなり、橘家文蔵師が舞台を横切って「お先」と声を掛けるいたずら。残念ながら演者にカメラが寄っていて、顔が映らなかったが。
お客さんいないのにやりますかと崩れ落ちる馬治師。ご本人の言う通り、配信で緊張している馬治師をほぐしてやろうといういたずらである。
ちなみに楽屋は高座の裏にあるわけで、文蔵師はわざわざ遠回りして舞台を抜けているのである。
さて、多くの落語ファンと同様、私の頭の中にも古今東西の唐茄子屋政談が、雑多に放り込まれて一本のテキストになっている。
演者はさらに、ずっと詳細なテキストを持っている。
そのテキストを、ほんの少しずついじる馬治師。
いじること自体に価値があるわけではない。むしろ、落語の世界の本質を変えないために、少し変えるというべきか。
現代の落語を語る目的のために、少しずつ展開を編集していく。
寄席のトリはそんなに時間はないので、後半部分(長屋の貧しい親子)はできない。それは最初からわかっている。
ちなみにこの前半を聴いて、「いっそこの、幸せな世界で終わりたい。悲劇の後半に入って欲しくない」と思った。そんなことは初めてだ。
種類の違う人情に溢れた前半の、この気持ちのよさを保ったまま聴き終えたいと、切にそう思ったのだ。
前半だけの唐茄子屋政談の、その後半、若旦那が実際にかぼちゃを売って歩く部分と、吉原田圃の場面は馬治さんもそれほどいじってはいない。
導入部にいたく感銘を受けたのだ。こんなところ。
- 勘当の場面が軽い
- 苦難に遭って身投げを決意するまでの描写も軽い
- 唐茄子を売りにいけとおじさんに命じられ、いったん若旦那はいやがる。その際のおじさんの説教が、実に手短か。
勘当された若旦那は、「お天道さまは付いてきたが、米の飯が付いてこない」苦難に遭う。
もともとこのストーリーは、古来から「放蕩の若旦那の自業自得」と、誰の目にも映ったろう。若旦那が了見を入れ替えていく展開に感動した人が多いはず。
だが馬治師の語りからは、現代社会において特徴的な「誰の身にいつ降りかかるかわからない災難」というムードが漂ってくるではないか。
それはまあ、啖呵を切って飛び出てくる若旦那は世間知らずで、無知だ。だが、「世間体を気にしすぎる親戚が、親を焚きつけて勘当を実行させる」と捉えるなら、これもまた立派な災難なのだ。
昔の人のほうが、「自己責任論」は強かったんじゃないかなんてちょっと思う。「因果応報」なんて便利なことばもあるし。
若旦那は、自分の社交性によって構築した人間関係の中で生きていけると思っていた。だが、最初に面倒を見てくれた幇間を含め、その人間関係は実にもろかった。
そこまで事前にわかりはしない。
噺の前半部分で世間の薄情さが身に沁みたであろう若旦那、だが、その描写は極めて少ない。
花魁のところに転がり込んで、体よく追い出されるシーンはそもそもないし。
もちろんあえてこういう演出にしているのだろう。
そしておじさんは、唐茄子を売って歩きたくない若旦那をキツくは叱らない。志ん朝など先人は、こここそハイライトにしているのに。
昔の客は、「厳しく優しいおじさん」に感動しただろう。だが、ハラスメントに充ちた社会で閉塞感を味わっている現代の客は、結構引くのでは。
馬治師のおじさんは、ごく軽く若旦那を叱り、そして理屈をしっかり語り込むのだ。
怒りが強いと、理屈は伝わらない。
若旦那は、いま売って歩くことが、辛いのだが必要なことと、ちゃんと納得して出かけるのである。
現代のブラック企業には決してない、真の優しさを持ったおじさん。
苦難の冒頭部と打って変わり、おじさんと、かぼちゃを買ってくれるいなせなお兄イさんにより、人情フルパッケージ。
たまりません。
そして馬治師、マイナス部分がないのも大きい。
吉原田圃の蛙に語り掛けながら、放蕩時代を懐かしむ若旦那。しかしそこに、「コイツまだわかってねえのか」的な、客のマイナス感情の入り込む余地などない。
若旦那は最初からいいヤツなのだ。苦難にあって死にかけても、まだ腐っていない。
ちなみに、おじさんに「できないこと」がなんなのか訊かれて、「きゅうりのおこうこ食べるとか」と答える若旦那。
その後さっそくバリバリ食べるのだが、「偏食の若旦那」って、弟弟子の桂三木助師からヒントを得ているんじゃないだろうか。
馬玉師とともに、馬治師にも期待大です。
馬生一門も、二ツ目も馬久、小駒、馬太郎と楽しみな人ばかりである。
まめな更新お疲れさまです
唐茄子屋政談というと以前黒門亭で伯楽師匠が演られていたのを思い出しました。二部ということもあってか競馬の長めのマクラから始まり後半の意地悪大家を殴るところまでやりきった豪華な唐茄子屋政談でした。終わる頃には17時くらいにはなっていたかも知れません(苦笑)
馬治師匠の今の人にも分かりやすいように若旦那のおじさんを昔みたいに厳しくしないという工夫というのもいいですね。いつか馬治師匠のものも聞いてみたいですね
そういえば今日馬生師匠の唐茄子屋政談が日本の話芸で放送されますね。演じる落語家さんによって噺が色々変わるのも落語の魅力ですよね
うゑ村さん、いつもありがとうございます。
今日は馬生師の放映の日でしたか。予約はしてますが忘れてまして、今日この記事を出したのは偶然です。
馬治師の配信、7月末までは聴けますのでぜひ。
黒門亭、いつ開きますかね。
コロナがある限り、もう無理かななんて思ってますが。