すでに二席の落語とトークで、大満足のこの落語会。
トリは古典新作二刀流の花いちさん。私が現在、二ツ目でもっともよく聴いている人である。
今月頭にも長津田で二席聴いた。今年は7席目の高座となる。
うち新作は2席、あとは古典。まあ、いい比率ではないだろうか。
トークでは、披露目で掛ける噺をいつ決めるべきか、緑君さんがおさん師に相談していたが、その流れで花いちさんに対し「ママチャリきょうこ」とか「宿へゴースト」とかやればと言っていた。ママチャリが倒れる所作つきで。
最近やってないよと花いちさん。あいにくどちらも私は未聴。
馬桜師が、「花いちの新作は教われないな」と語っていたとも、緑君さん言っていた。師匠だけでなく、緑君さん自身が花いち新作大好きみたい。
花いちさんのほうは、「ぼくは本当は本格派を目指してたんです」なんて力説してたが。
新真打の準備をいろいろしているが、4人の写真はまだ撮っていない。小んぶさんが「痩せたら」と言ってるんだそうで。
二ツ目に詳しい客たち、大ウケ。
その打ち合わせをしていた場所は食べ放題であったそうで、写真は当分先になりそうだと花いちさん。
この日は花いちさん、先に「福袋演芸場」に出た。
死神の前日譚、後日譚をそれぞれやるという趣向で、花いちさんは後日譚担当。
その間に入る死神本編に、SMシーンが入っていたりして、今ちょっとわけわからなくなっていますとのこと。
根津の隠居所に話題を振って、茶の湯。習いごとのマクラ持っているはずだが、それは振らなかった。大ネタだから。
この古典落語に、参りました。もう、打ちのめされた。
めちゃくちゃ面白いけど、同時に「なんて卑怯な落語」とも思った次第。だって、ほぼ顔芸落語なんだもの。
花いち新作だけでなく、花いち古典も、誰も教われない芸である。
面白古典落語も世に増えたが、花いちさんの古典はどれとも似ていない。私が日頃、見事な古典落語から味わう感動とは、まるで違うところにこの茶の湯は位置している。
私が聴いている限りでは、花いち古典の一般的傾向はこんなの。
- 世界を作り替えたりはしない
- 展開を入れ替えたりはしない
- クスグリたっぷりのスタイルではない。ただし、渾身のオリジナルクスグリが数か所入る
- 演者のとぼけ味を、噺の隅々まで行き届かせている
だが茶の湯は、一般的な花いち古典とはやや異なるようだ。
初めて花いちさんを聴く人が茶の湯に遭遇すると、演者のイメージがこの噺に固定されてしまいそうな気すらする。それが不幸だとはまったく思わないが。
とぼけた隠居を自分の分身に据え、やりたい放題していくという点だけ取っていうなら、他の古典と共通している。
ただ、茶の湯に関しては、本当にそこだけなのである。そこだけで爆笑なので、後はいらない。
新作や面白落語について非常に好意的である私すら、本格派の芸をよしとする価値観は持っている。
そこにかすりもしない芸。おさん師よりもさらに。
客のほうが積極的に周波数を合わせないといけない点は、春風亭昇々さんに近いかもしれない。
タフなハートと、自らの高座を俯瞰的に眺める才がないと、とてもじゃないができない高座。
一瞬そんなことを理屈脳で考えてしまう一方、私の感性は理屈抜きでこの芸を楽しんでいる。
茶の湯、普通にやっても楽しい噺だ。
隠居さんが勝手なお茶のマナーを作り上げていくさまや、ひどいお茶を毎日飲んで下痢が止まらないとか。短めな噺が好きらしい花いちさんは盛り込まないが、店子3人の大騒動など。
その普通に楽しい噺を、花いち流にすべて上書きしていく。個性的な字体により写本された物語を読んでいるような感覚。
特に、隠居が自己流で開発した、お手前の所作。全身で茶碗を回していくのがこの噺の最大のハイライト。
だがそこ以外は、おおむねスタンダード。展開はスタンダードなのに、演じ方がすっ飛んでいるのだ。
私はいつも落語に接し、表現できないものをなんとか言語化したいと思っている。
しかし、この茶の湯で感じた思いを、もうちょっと言葉にしたいが、現状太刀打ちできない。
この大作、真打の披露目で出そうな気がする。
新作には、トリネタはあるのだろうか?
というわけで、強烈な会でありました。大満足。
花緑弟子の会ともども、また来たいものだ。