考え落ち、地口落ちという、比較的明確な、区別しやすいものから見てみた。
といっても、比較的明確なこれらからして、すでに混沌と化しているけども。
落語界でも随一の、理屈の立った噺家である枝雀は、既存の分類に理がないと切って捨てた。
だが、なぜ既存の分類が存在しているのかには無頓着だったようだ。
オチ(サゲ)の分類は、結局のところ噺から得られる客の心理をわかりやすく整理したかったことに需要があるのだと思う。この点、「緊張と緩和」論を説いた枝雀と出発点は同一だった。
もっとも整理しようとすることで、今度は客の心理を置き去りにしたりなんかして。
前回取り上げた「地口落ち」だが、大事な噺をひとつ思い出した。
「鼠穴」。この人情噺の大ネタも、サゲは地口。「夢は土蔵(五臓)の疲れだ」。
「ああよかった、全部夢だった」という大団円において、このしょうもない地口がいかに人の気持ちにピタッとハマるか。
地口がくだらないなんて、私は一生言わないぞ。
とたん落ち
ここからちょっと難しくなる。なんだとたん落ちって。「ぶっつけ落ち」「とんとん落ち」などとどう違うのか?
私もそんなによくわかっていないので、学習しながら進めていく。
途端にオチるからとたん落ち。最後のフレーズがピタッと話をまとめる落とし方を、こう呼ぶ。
「芝浜」「子別れ」「百年目」「寝床」「愛宕山」「厩火事」などの大ネタに付いているとされる。
軽いところで「動物園」。
「目黒のさんま」だと、間抜け落ちか、逆さ落ちになるので違うな。
「よそう、また夢になるといけねえ」や、「どうりで玄翁でぶつと言った」など、確かに名作っぽい。
大ネタだとやはり、オチはよくできている必要があるようだ。だからとたん落ちは名作のサゲとされる。
でも私に言わせれば、並べてみたときに「とたん落ち」というまとめ方にはいささか無理があるような気がしてならぬ。
というのは、子別れも百年目も、サゲのために伏線を仕込んでいる構造だからだ。特に子別れ、サゲるためのサゲ。
真に「途端」にサゲたと言えるのは、伏線のないオチだけの気がするのだ。
だから、「芝浜」「寝床」「愛宕山」「厩火事」こそ、とたん落ちにふさわしいなと。
芝浜も伏線を回収しているように思えるが、別にオチのための伏線などない。酒でしくじるのは噺全体のテーマだからだ。
聴き手の気持ちとしては、唐突なサゲであり、それゆえにインパクト大。
といっても、その中でデキの良しあしはある。
「あそこがあたしの寝床なんでございます」という「寝床」のサゲはタイトルにもなっているけど、唐突の度合が強すぎてあんまりいいオチじゃないな。ただ、展開的にいい感じに進められるので、生きているのだろう。
オチ変えてやってる人、たまにいますね。変えても演題は寝床。
こういう、しっくりこない古い分類のありようを見ていくと、枝雀の気持ちも徐々にわかってくる。
枝雀はサゲの4分類において、「合わせ」という概念を提唱した。なにかとなにかが、サゲと唐突に一致する快が、「合わせ」の正体。
子別れや百年目こそ、実は枝雀の唱える「合わせ」にふさわしい。
むしろこのマッチングの概念が、既存の分類になかったことのほうが問題なのだと思う。
既存の分類において仮に「合わせ落ち」または「回収落ち」というものを観念するなら、足りない分類をピタッと埋め合わせてくれる。
つまり、「サゲのためのサゲ」であり、これらはとたん落ちではないのだ。
ちなみに私は、「伏線回収サゲ」という概念を唱えている。心理より外形から入ってみた。
もちろん、既存の分類も枝雀のものも、私が作ったものも、分類の中身がそもそも違っているので、単純にスライドして収まるわけではない。
とたん落ちについて見てきたが、ここで「だからどうした」と言われるとツラいものがある。
「とたん落ち」の中に、真の途端と、偽途端があることを指摘したからといって、それが何になる?
私だって、別にこれが世のため人のためになると思っていませんがね、
でも、なかなか楽しくなってきたのも事実。
楽しくなるということは、分類にも価値があるということだ。