噺家の自己評価と寄席の顔付け

朝の更新を休むと、トップページのアクセスだけ一定の数があり、記事の個別アクセスが低いという状態に、すぐなる。今がまさにそう。
まあ、毎日楽しみにしてくださっている方が多いようで、ありがたい限りですが。
今日も頭を絞っていきます。

<新・笑門来福 笑福亭たま>絶対アカン考え方というコラムに行きついた。
京大卒のたま師は、私にとっては「インテリをこじらせた噺家」であり、知性を使う方向を常に間違っている気がしている。
今回見つけたコラムも、そのこじらせた知性の現れを探して行きついたものだったのだが、なかなか面白かったので方向性を変えて取り上げる。

新聞コラムはじき消えるので、要約しておく。

  • 優性思想はよくない
  • 落語界にも優性思想を持つ芸人がいて「下手は出すな」と言う
  • 下手とは、「集客力が弱い」ということ
  • 東京の寄席には「下手も要る」という重要な格言がある
  • 「下手は出すな」という奴に限ってアカン奴

優性思想は、ALS患者安楽死事件や、相模原の重度障害者施設大量殺人を引いてのもの。
私も、「優性思想と落語界」なんて記事をかつて書いた。

「下手は出すな」なのかどうかはともかく、全員平等に顔付けするのが悪しき共産主義だと声を上げていた噺家ならひとりいる。
愛人DVでおなじみ、桂春蝶。

参考記事:寄席の機会均等を考える

協会が顔付けをする天満天神繁昌亭の場合、平等主義にならざるを得ないところはある。
そこに徐々に競争原理を入れようとしているところではあったらしい。コロナで全部やり直しになったが。
たま師のコラムは、上方落語家をアジろうとして果たせない、春蝶に対するストレートな批判に思える。
ただ、他にも「アカン奴は出すな」と言う噺家は多数いるようだ。

年末に、上方落語家4組8人が落語について熱く語るラジオ特番があった。たま師もここに呼ばれていた。
たま師の対談相手であった桂文鹿師が、どうやらコラムでの批判の矛先のひとりらしい。
文鹿×たまの対談だけではなく、別対談に出ていた笑福亭鉄瓶師の発言を組み合わせないと、全体はわからない。

春蝶はメディアの露出も、今や夕刊フジだけになった(これは続くのだよな)。
新宿末広亭にもすっかり呼ばれなくなった。事件の影響は大きかった。
まあ、本当の暴力性を抱えた噺家の落語なんか聴きたくない。
かたや、たま師は非常に勢いがある。勢いのある人が、「アカン奴は出すな」の落語優性思想を排除宣言する意味は、なかなか重い。

しかし気になる点も。たま師に限らず、上方落語家は常に東京の寄席を意識している。せざるを得ない。
だが、しばしばピントがずれている。たまに呼ばれて出るぐらいでは、寄席のことはファンよりもなおわからない。
東京の寄席だって、下手な芸人を普通に呼んでくれる世界ではない。
この部分の認識が、根本的に誤っている。

「自分で上手いと思っている噺家が、実はアカン」という点についてはまったく賛同。岡目八目。
「同じ実力」と思ったら、向うのほうが上手い。「負けた」と思ったら大差がついている。そんな標語も生きている。
まあ、東京のほうが、客観的な実力を常に意識せざるを得ないところはあり、実は下手な噺家が威張るような勘違いは生じにくいだろう。
なんだか威張っているのが立川志らく。この人が上手いとは私はちっとも思わないし、同業者の多くもそうだと思う。
だが、志らくだって自分が主役になれる世界で傲慢なふるまいをしているのであり、虚勢を張っている気は別にないのだ。

さて、たま師は知らないが、「寄席に呼ばれない」噺家は東京に無数にいる。特に大所帯の落語協会には多い。
噺家は名ばかりで、本業が別にあるようだ。これだって「本業が好調だから寄席に出ない」ならまだカッコいいが、たぶんそうじゃない。
顔見世興行の初席には呼ばれても、あとは一切呼ばれない噺家も多い。
寄席のほうは別に、下手な噺家を救済しようなんて思っていない。できればオールスターで番組を組みたいのだ。幸い、よその寄席に取られても、別の噺家を顔付けできる程度に数はいる。
ヒザ前など、おおむね一流の噺家が務めている。だがヒザ前では、派手な芸はやらない。
一流芸人の持つ、別の引き出しが期待されるのである。

国立演芸場とか、上野広小路亭(芸協)のように、寄席組合に入っていない寄席の場合、実力的に微妙な人が紛れていることはままある。
ただそれだって、余っているから顔付けしたわけである。誰も好んで拾いはしない。

寄席の空気を変えるのは、下手な芸人の仕事ではない。一流の噺家も、漫談芸を出し、地噺を出し、空気を調整する。
さらに客の脳みそを空っぽにしてくれる、ありがたい色物さんがいる。
色物さんだって、落語協会や芸協の香盤を見ると、呼ばれない人がなんと多いことか。現在の一流色物だけが寄席に呼ばれている。
「下手も要る」は噺家が少なかったころの格言だと思う。もう、そんな概念自体消滅している。

「寄席には下手な噺家が出ることもある」が正解であって、「多様性確保のために下手な芸人を顔付けする」世界ではない。
もしかすると、たま師の誤解こそあるべき論かもしれないが、それを実践している寄席は休止中の黒門亭だけ。
上方の人も正しい認識を持っておかないと、参考にすることも、反面教師にすることもできないよ。

作成者: でっち定吉

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