池袋演芸場25 その8(柳家喬太郎「心眼」下)

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按摩、梅喜の心の叫びに徹底して迫る喬太郎師。
梅喜の叫びは都合3回。

  • 弟に「どめくら」と言われて帰ってきて、家で爆発する
  • 満願の日、薬師さまで目が明かず、神を呪う
  • 女房、お竹に首を絞められ、謝罪する

この各シーンにおいて、梅喜は実にリアルな感情のほとばしりを魅せる。
最後の叫びは、女房・お竹の爆発を受けてのものでもある。
落語としては、少々やり過ぎの演技を見せる喬太郎師。だが、芝居としてはど真ん中で圧巻。
客の内心に届く以前に、師自身の感情のほとばしりを魅せたい喬太郎師。
そしてそこに、不自然さなどかけらもない。

こういう演技、先人にある?
私が唯一思いついたのは、本物の役者でもあった志ん朝。
だが志ん朝の落語における芝居は、どこまで行っても落語だったのでは。むしろ、芝居の技法だけを落語に持ち込むことで、「クサい」という評価もあったように思う。
もちろん「クサい」ことイコール悪ではない。志ん朝自身も、クサくできることは大事と、そう語っていたような。

喬太郎師は、どうして芝居の技法を、より自然に高座に持ち込めるのか。
芝居としての演技を、師が確立しているからだろう。役者としての実際の頻度はともかく、師こそ真の役者であるらしい。
芝居の素人の私にはわかるのは、ここまでだ。落語だって素人だが。
ただ、心眼において喬太郎師がこの技法を選んだ理由はわかっているつもりだ。
盲人の主人公の魂の叫びは、一般人にとってストレートに理解するのは困難である。曲解してしまうこともある。
登場人物の気持ちに沿おうとするうちに、一席終わってしまう。
ならば、伝わることの努力より、盲人自身の叫びをそのまま出したほうが効果的なのだ。少なくとも、登場人物の魂が叫んでいることは誰にでもわかる。

演技論はともかくとして、「感情のほとばしり」という要素についていうなら、これは喬太郎師の他の噺にも見受けられる。
特に新作ではほとばしっている。昨年聴いた「東京タワーラブストーリー」でもこれを感じた。
あちらは爆笑落語だけども。

当ブログでは、喬太郎師が出演した「SWITCHインタビュー達人達」という番組を5日にわたり取り上げた。
元記事で「達人達」が「芸人達」になっていて焦ったけど。直しました。
人気の喬太郎師を取り上げたわりには、内容が固すぎたか、累計アクセス数はイマイチでしたが。

この番組で喬太郎師、伊藤亜紗という美学の先生と対談していた。番組の中で大きな比重を占めていたテーマが「視覚障害者の世界の見え方」なのである。
番組から、喬太郎師が按摩の噺の深掘りを思いついたのだろうことは間違いない。特に心眼。
心眼の主人公、按摩の梅喜は、なぜ目を開けたいと思うのか。
障害、つまりハンディを解消し常人になりたいと思うのが当たり前? だが、伊藤先生に触発され生み出したのは、そんな単純な内容ではない。
盲人が視覚以外の五感をフル活用して感じる世界に、少しでも迫ろうとする喬太郎師。もちろん、「本当に目が開いたらこうなる」なんてところに真のリアリティが存在しないのは承知の上。
すべては夢だった梅喜だが、しかし無念はないだろう。自分のずっといた、当たり前の世界に戻ったのだから。

喬太郎師の心眼における、細かい掘り下げ振りを見ていきたい。

  • 家に帰って弟への怒りを爆発させる梅喜に、お竹がイヤなことを訊いてごめんと詫びている
  • 開いた目の機能を確認するため、梅喜が自分の指をじっと見て、数を勘定する(夢から覚め、また盲人に戻ったとき、同じ仕草が繰り返される)
  • いきなり上総屋が消えてしまうだけでなく、芸者の小春姐さんもいきなり消える
  • お竹が梅喜を非難する際のセリフ「あんたが喜ぶと思うから、あたしだって目を開けたいと思うのを一緒に喜んだんだ」

心眼という噺、按摩の見る夢を描いている。
落語には夢ネタが多数あるが、心眼だけ、構成がちょっと違う。「夢だから」ということで、劇中に不自然さをあえて残してあるのだ。
「鼠穴」など徹底したリアルが求められるストーリーとは少し違うのだ。
もともと心眼には、整合性の取れない点が多すぎるのだろう。無理に整合性を求めないほうが上手くいく。
特にかみさんのお竹が人無化十のひどいご面相であり、しかも梅喜にその事実を隠し通しているというのは、あまりにも不自然。そんな女房が、亭主の目が開くのを喜ぶはずがない。

お竹のひどい顔は、梅喜が夢で生み出した怪物だ。梅喜がいい男だというのもまた。
実際はそうでないらしいことが、お竹のほとばしる感情からうかがえる。
客もまた聴覚を通じて、この噺のお竹が実にいいかみさんであることをよく知る。

かみさんは、目を開けたい梅喜を心から支援しているのに、梅喜よ、貴様自身はいったいなんて夢を見たのだ。これが夢から覚める前にすでに明らかになる仕掛け。
自分自身の生み出した悪夢を見た梅喜は、再び美醜の無意味な世界に戻っていく。

人の人生を丸ごと背負わされ、ズシリと重みを感じる一席。
しかしその実、実に爽快な気分で池袋を後にしました。
その爽快感が、1週間以上経った今でも続いている。
またこの高座、ネタにさせていただくと思います。

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作成者: でっち定吉

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