毒舌ライターが上原浩治氏の顔面をdisった話(上)

物書き(泡沫)の私、調子にのっていろいろ書いてると、いずれ消されるかもしれない。
そんな恐怖を抱いたという話です。

「産んでくれた親に失礼」「ちょっと我慢できません」 上原浩治、容姿批判のコラム記事に不快感あらわ

失礼な記事に対して、日米通算100勝・100S・100Hのレジェンド右腕が怒りをぶつけたもの。
コラムを載せたJ-CASTは謝罪して、早速記事に修正を入れた。連載は報道後に打ち切られた。
上原浩治は(世間の大多数と同様)知る由もなかったが、書いた人は泡沫ライターではなかった。
麻生千晶という物書き。Wikipediaに記事が建てられている著名人。

このニュース自体、かなり複雑な視線から読んだのであった。物書きの末端にいる人間として。
表現の自由は極めて重要。だが、他人の人権を傷つけてまでなお優先されるものではない。
だから上原が怒るのは当然。載せた方の対応も当然。
一連の流れを当然と捉える常識的な視野はちゃんと持ちつつも、「だけどな」という話である。

私は芸能人の間違ったサービスに基づく舌禍事件については、本来厳しめのほうである。当ブログにもそんなのをよく書いている。
だが、芸能人でなく物書きの起こした事件の場合、物書きの側を弁護するのか?
これについて、矛盾を追及されたら釈明しづらい点は、あらかじめお詫びしておく。
もっとも自分自身では矛盾なく捉えている。ただ整合性は、被害者の味わう苦痛の「程度」に求めざるを得ない。
被害者に対し「この程度で怒らないでください」とはとても言いづらい。だが矛盾しない根拠を求めるとしたら、そこしかない。

つまり私は、怒りを見せた当事者に対し、大きな違和感を持っている。
書き手の麻生千晶は、上原浩治のことを褒めて締めくくっているのだ。言葉がユーモラスだと。
言われた当人、喜んだっていい内容。ところが、ブサイクだと書かれた前半部分にのみ反応している。
実際には、「客観的にブサイク」とは書いていない。筆者が「苦手だった」と書いているだけである。
イケメン投手たちを引き合いに出し、顔が苦手と書いているのは確かにまずかった。とはいえ、どこまで行っても書き手の主観の範囲だと私は思う。
なにか上原自身に、容姿に関するものすごいトラウマがあるのではないだろうか。
世間は元一流スポーツ選手に敬意を払うから、上原に同調して「怒って当然」と一緒になって書き手に怒っている。
だが今回の真相は、かなり特殊なトリガーに触れてしまったというだけなのでは。そんなもの、書き手にわかるはずがない。
そして当人が怒る前に、いったいどれだけの人が当該コラムを不快に思ったというのだろうか。

侮辱と感じて無理はないし、有名税だとあきらめなければならないものでもない。
世間はMe Tooブーム。不満は黙っておらず吐き出せという方向に、舵を切っているところでもある。私もそのことに文句なんてない。
だが普通はこんなコラム読んでも、「うわー、ヤなこと書くな。誉めてくれたのはいいけどさ」ぐらいじゃない?
ユーモラスだと褒めてもらったのに、上原のインスタへの怒りの書き込みにはユーモアはさしてなかった。「産んでくれた親」あたりに、うっすら感じなくもないが。
「ユーモラス」だと褒められる余地があっても拒絶し、シャレがわからなくてもいいやと怒りをぶつけた上原。
ハタから見ていて感じる怒りの程度と、当事者のそれが違い過ぎてうろたえる私。

「書き手の主観の範疇だったら、人の顔をけなして許されるってもんじゃないだろ!」というさらなる追加燃料投下は容易に想像できる。
もちろんその通り、その通り。
だが、人を褒めた文章でもって激怒された日には、毒舌コラムニストが書けることなんてこの世になくなってしまうではないか。
毒舌コラムが人を褒めるとき、まっすぐ到達せずに絡め手から持っていくのは当たり前。クサしておいて持ち上げるテクだ。
上原は関西人。そんなやり方には慣れているはずなのに。
逆もある。持ち上げておいて落とすという。

上原浩治という人は、イメージではあるが、相手が著名人だろうが大家だろうがそんなに態度が違う人ではないとは思う。
とはいえ、TVで明石家さんまや上沼恵美子に同じ内容をぶつけられたとしたとき、同じ反応を示すとも思わない。
今回の上原の怒りの中には、「無名な奴が偉そうに!」という、勘違いによる要素も大いに含まれているのではないか。そう想像する。

続きます。落語のことも、ちょっとは出しますので。

 
 

作成者: でっち定吉

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