鈴本演芸場7 その1(柳家喬太郎「文七元結」上)

11月の締め切りを片付け、鈴本の喬太郎師の芝居へ。千秋楽。
もともと、その前日に行く予定にしていたのだが、よく考えれば月曜は定休日である。まあ、落語の前に仕事が完結したのでいいとする。

喬太郎師、今年3席目。
もうちょっと聴かないとなといつも思う。寄席にもよく出てるのだし。
しかし今年の2席は、「心眼」「芝カマ」と素晴らしいものであった。
正直、いくらキョンキョンとはいえ、そんなに素晴らしい席ばかり続かないだろうなんてちょっとは思っていた。
それはそれで仕方ない。分母を増やしていこう。
しかし今回もまた、素晴らしい一席でした。アベレージが高すぎる。
その、トリの一席から取り上げます。

この席では、「ハンバーグができるまで」とか「任侠流山動物園」なんて掛けてるらしい。
しかし私はやっぱり、寄席の喬太郎師では、だいたい古典に遭遇する。
喬太郎師の古典大好きなので不満は一切ないが、世間には逆に、キョンキョンの新作ばかりに遭遇する人もいるんじゃないでしょうか。
明日から12月。たぶん千秋楽は文七元結と決め打ちだった気はする。
喬太郎師の文七は聴いたことがない。季節ものだし。
ちなみにこの日はキョン師の誕生日だそうで。58歳。還暦まで2年。

喬太郎師、登場していきなり「凝っては思案に能わず」と口を開く。
マクラなしである。
一度、マクラなしの喬太郎師に出くわした。その際も鈴本で、井戸の茶碗だった。
落語会ではマクラを入れるのだろうが、寄席で文七をやろうとすると、そんな時間はない。10分オーバーの熱演でした。

昨年、こんなものを書いた。

柳家喬太郎Vs.伊藤亜紗 その1

NHKのドキュメンタリーを題材にしたものである。
今年喬太郎師から聴いた「心眼」は、この番組で語られた、視覚障害者の世界の見え方に間違いなくつながっていると思うのだ。

そして、こんなものも書いた。

立川談志の文七元結と利他の精神

たまたまラジオで聴いた番組から、「利他」という観点が、私の中では無限の広がりを見せたのだった。
これで映画「そんな夜更けにバナナかよ」を見たり、JR乗車拒否騒動についても考えたりしたのだから。

関係ない話のようだが、伊藤亜紗、中島岳志の両先生は、ともに東工大で文系科目を教えているという共通点がある。
そして、末尾に広告張っておくが、共著を出しているのである。
あいにくこの本はまだ読んでいないが、喬太郎師はきっと読んでいるのではないか。

というわけで、文七元結について「利他」を考える話が、文七元結を語り出した喬太郎師にたちまちつながったのである。
師が、ここに出した話をすべて網羅しているかどうかは知らない。別に演者に、そこまでの義理はない。
それでも私のほうは、喬太郎師の文七が、志ん朝型か、中島先生がまさに利他の精神だと評価する談志型なのかが気になってしまったのだ。

結論から言うと、明確な談志型。まさに利他の精神に溢れたスタイル。
飛び込もうという文七に、喬太郎師の描く長兵衛親方は、一切の共感はしない。最後の最後まで。
ただ、他に助けてくれる人もいない状況において、「50両出さないとこの若者は死ぬ」という構造に、耐えられない長兵衛だ。
これが利他の本質なのだと中島先生は言う。

長兵衛親方は、50両を文七に放り投げる際、完全に娘が客を取らされる結果までをも、その時点で受け入れている。
文七の分まで含めた100両を返済する目途がまったくないことまでも。
赤の他人のために、自分の娘を売らなければならない義理なんて、本当にないのだ。でも、やらざるを得ない、その関係性を静かに受け入れる。

喬太郎師が、「利他」をキーワードにして談志型の造形にしたのか、そんなことはもちろんわからない。
ただ人間に対する捉え方、どう描いたら自分自身に腑に落ちるかは、談志のほうに近かったのかもしれない。
最近、談志の続き物も書いて、談志に高座を引きずり降ろされた気の毒な喬太郎師にも触れた。
しかし、意外なところで伯父筋の談志につながっているかもしれない。自覚の有無は知らないが。

ちなみに談志がキョン師を引きずり降ろしたのは、「江戸の風が吹いてない」からだとか。
なに、今日の鈴本には、江戸の風は吹きまくっておりました。

続きます。

 
 

作成者: でっち定吉

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