ふう丈 / (演題不明)
吉幸 / 家見舞
左吉 / 無精床
楽之介 / 目黒のさんま
好の助 / 錦の袈裟
(仲入り)
小円楽 / 手紙無筆
西ゆかり
竜楽 / 井戸の茶碗
東都の片隅、両国に落語会の未来を先取りしている小さな寄席がある。お江戸両国亭。
毎月15日までは、円楽党の両国寄席である。未来を先取りというのは、円楽党の噺家さんに、他三団体のゲストが混じるから。
非常に好きな空間なのだが、夜席しかないので、子供のいる家庭ではそれほど行けない。今回のように夏休みとか、週末に限る。
1月に家族で来て以来だ。主任が日替わりなのが、落語協会や芸協とは違う。9日の主任は三遊亭竜楽師。
昨年、それまでまったく知らない状態から竜楽師匠のファンになり、1年で6席聴いた。今年も2席。1月の両国も、この師匠の主任。
私にとっては、円楽党全体を聴くきっかけになった師匠である。
好楽、兼好、萬橘、朝橘など円楽党には素敵な噺家さんが無数にいるのだが、結局今年も竜楽師を中心にして円楽党に通っている。私の落語生活の中心にいるのが竜楽師。
ビフォー竜楽、アフター竜楽で私の落語生活は大きく変わったわけだ。
いっぽうですでに今年2回、亀戸梅屋敷寄席で竜楽師匠の出番があったのを、迷った上国立の芸協のほうに行ってしまった。芸協にも行きたいもので。
改めて、亀戸よりいい環境の両国で、ちゃんと竜楽師を聴こうと思います。
三遊亭竜楽「井戸の茶碗」
お目当て竜楽師の「井戸の茶碗」について先に。
時間を20分オーバーしての熱演でした。いや、竜楽独演会を聴いたような、圧倒的な満足。
竜楽師匠の井戸の茶碗についてはCDを持っている。先日、三遊亭遊雀師の「堪忍袋」を聴いた際に触れたCDのカップリングである。
CDより、内容が圧倒的にパワーアップしていた。もちろん、ライブで聴いた高揚感は大きいと思うが。
竜楽師匠、滑稽話、人情噺、なにを聴いても素晴らしい人である。外れたことは、ただの一度もない。
このブログで、いつもその芸については多くの筆を割いている。
しかし、書いても書いても、この師匠の芸の魅力は、こちらの手ではすべてをつかみ取ることができず、軽くすり抜けていく気がする。
そして、寄席で聴くと、再度その芸の魅力の一端が取り込める。だが、その取り込めた内容、感動するポイントが、噺によって毎回違うのだ。
今回もまた、いつもと違うものがこちらに入ってきた。引出しの広い噺家さん。
井戸の茶碗は人気の噺だからいろいろな噺家さんから聴くが、今日の竜楽師匠のものが圧倒的によかった。
できる限りこの感動を書き留めておかないと、またすり抜けていってしまう。
ただ、竜楽師のあらゆる噺から得られる共通項として、私の中でまぎれもなく捉えている要素はある。それは「ハードボイルド」。
竜楽師は、登場人物の内面描写を一切しない。その結果、人に対して感動を押し付けるような部分は一切ない。
誰でも竜楽師の噺で容易に感動できるが、たぶん、人それぞれ感動の構成要素は異なる。
当たり前だといえば当たり前なのですけどね。これはよくできた小説や映画、芝居に共通することだ。
前回から学んだのだが、テケツの前座さんに「竜楽師匠を聴きにきました」といって、定価1,500円のところ1,200円で入れていただく。
恐らく、子供が来たという情報と、竜楽師匠のお客さんが来ましたという情報の両方が、楽屋入り後の師匠に、ただちに伝わっているのだ。
私も間違いなく竜楽師匠のお客ではある。顔もたぶん覚えてもらっていると思う。
師匠と一度も直接口を利いたことはないのだが、あのお客が割引で入ってきたというのは、楽屋でもご認識いただいてるのだと思う。
竜楽師、マクラでは、うちの子についてちょっと触れてくださった。
「お子さんがいますという情報はすぐ楽屋に伝わるので、こちらもお子さんに合わせた噺を選ばなきゃいけない。その後で、落語好きなお子さんなのでなんの噺でも大丈夫ですって聴きました。どっちなんだよと」
障害者のお客さんもそうだが、子供が来たという情報は、楽屋のネタ帳や、ホワイトボードに書かれる。
噺家さんの寄席における仕事の大部分は、噺の選択だ。袖から客を見て、その日の客の様子を知る。
そして、どの古典落語でもツボでしっかり笑ううちの子、しっかり観察されているのだろう。
まあ、そうでなきゃ、いきなり廓噺の「錦の袈裟」なんて掛けないもの。
そして竜楽師の熱演も、うちの子に向けてやってくださった部分も多少あるのかなと思うのだ。
この日、息子はマジックの手伝いを(いやいやながら)したので、当日会場にいた人からは丸バレである。もうチビではない息子の情報について、さすがにブログでもう、積極的には触れたくない。
だけど、竜楽師匠へのお礼も込めて書きました。その代わり、人の記憶が薄れることに期待して掲載を遅らせた。
この日の唯一の色物、マジックの先生については、そういう事情で省略します。
先日の遊雀師のときにも触れたが、竜楽師は背筋を伸ばして聴きたくなる芸である。
だが、本当に背筋を伸ばしてマクラを聴いていたら、師匠に「そんなに固くならないで聴いてください」って言われた。
そりゃそうだ。落語はまずぼおっと聴かなきゃ。
でも昨年聴いた、「男の花道」とか「阿武松」「鼓ヶ滝」などの印象がどうも強いのだな。まさに背筋をただす芸。
それでも、多くの人が人情噺として掛けたがる井戸茶に関しては、滑稽話としての要素のほうを大いに感じた。CDの自己解説でも、通常は人情噺だが、滑稽噺としてやっているとある。
確かにリラックスして聴けばいいものだ。
固くならないで聴いて欲しいというメッセージは、マクラの内容に関連している。
先日銀座シックス能楽堂に、能の観劇にいったという話。能のお客さんは、上演中微動だにしない。来ているものもダークスーツ。落語とは大違い。
竜楽師は野村万作先生に狂言を習っている。狂言は、能の間に入るから、寄席でいうと色物。
だが狂言もまた、色物に比べるとぐっと固い。言葉も古いスタイルを残している。
万作先生は和泉流だが、もっと古いスタイルに大藏流がある。
大藏流の狂言を観ていたら、朗々としたセリフまわしに「私は~です」というものがあり、ずっこけてしまった。狂言なのに語尾が現代語の「です」?
だが詳しい人に聞くと、「~です」という表現は「~でござる」などよりずっと古いのだそうだ。
なるほどと竜楽師。よく考えたら、台本のない落語では、昔の人のセリフをそのまま表現しているわけではない。あくまでも、現代人から見たときの、それらしいセリフに替えているのだ。
たとえば、幕末の頃のお武家の丁寧語の語尾は「おりゃる」だったという。だが、落語でおりゃるは合わないので、これはござるでやらざるを得ない。
もうひとつ、このネタとシンクロさせながら交互に語っていたのが、常陸宮殿下の前でフランス語落語と講演をやった話。
事前に内容について全部提出しろという宮内庁。そんな大したことは喋らないのに。
殿下の目線より高い高座を、前座の三遊亭好吉さんが作ったところ、お付きのものに激怒された。殿下より高いとはなにごとかと。
といっても、殿下自身は鷹揚で、そんなことに文句を言うことはない。微笑むだけ。
落語を聴いても笑わず、微笑むだけである。
なるほど、この人たちは生まれついて数時間微笑み続けられるように訓練されているんだなと。皇室に嫁いだ雅子さまも大変だと竜楽師。
ふたつのマクラで客を笑わせリラックスさせながら、身分の問題と落語の言葉の問題、さらに古典芸能についてまで語り尽くす竜楽師。
よく聴く師匠なのに、マクラはあまり被らないので感心する。
柳家小ゑん師匠など、客の顔をよく覚えているので、それに併せてネタを臨機応変に変えるそうだが、竜楽師もそうなのだろうか。
そして本編、井戸の茶碗へ。
竜楽師の芸については、特にその所作について細かく観るようにしている。なるほど、これが三遊亭の芸なんだなと。
ぼんやり聴きたくもあるが、でも見逃せないので背筋を伸ばしてしまう。
細かい部分が丁寧だ。仏像のサイズと形状までよくわかる。
この正直清兵衛さんは、ざるで仏像を上げるのではなく、高木様に呼ばれて上に上がるスタイルである。
この噺は立川ぜん馬師に教わり、スタイルも踏襲したそうである。武家屋敷を描き、後のクスグリを引き立てるためだそうだ。
一般的にざるを使うのは、屑屋が非人身分だからではないかと思う。だがこの噺を聴くにあたりそんな前提は不要なので、招き入れる演出のほうが気持ちいい。
もっとも楽しく、スリルに満ちているのが、高木様の行為を不審に思う屑屋たちに向かって、あれは仇討ちのためだと語る、せんみつ男のホラ話。
架空の話なのに、この先どうなるんだろうと引き込まれる。いや、そのホラ話の中身だって、古典落語なのだから先刻知っているのだけど。
「大山参り」の架空の海難事故を語る熊さんに通じる、落語ならではの見事なトリックであり、竜楽師の話術の醍醐味。
正直清兵衛さんを探す高木様が、違う屑屋に対して「裏表のわからぬ顔だな」「四角い顔だな」と悪態をつくのはウケどころだが、ここでウケすぎると難しい。
清廉潔白、人格高潔の好青年高木様が、嫌な奴になってしまいかねない。そんな井戸茶も世にたくさんあるけど。
だが、その処理が巧みである。高木様が上手いこと言ってるという笑いにはせず、気性のさっぱりしたこの侍が、本当に裏表のない顔を見てびっくりしたという演出にしている。
そして、清正公様で集まる屑屋たちは、その話題をさも嫌そうにくどくど繰り返したりしない。
もうひとつ、竜楽師のいいところは、噛まない。
噛むのが気になったりならなかったり、あるいは気にしないで聴いたり噺家さんもいろいろなのだが、とにかくも、噛まないのは大きなメリット。
内幸町ホールの竜楽師の独演会に、行きたくて行けないのが私の目下の悩み。
8月は31日(金)にある。金曜日なので子供を連れていけば行けるなと思ったのだが、翌日が始業式だ。
だが、両国でこれだけの熱演を聴けたので、少なくとも今月の独演会は行かなくていい。
それに、来月の両国は子供が移動教室なので、私だけ来れる。竜楽師は主任ではないけど。
2~3年後には子供も大きくなっているので、ついてくるとは限らないけど、私も独演会に参加できそうだ。
***
両国寄席の冒頭に戻ります。
両国も、繁華街ではないがしみじみといい街だ。
前日8日の両国寄席は、竜楽師もヒザ前で入っていたが台風接近で中止になった。
駅の三番ホーム下では、総武鉄道時代からの「両国橋」駅の写真展示をしていた。こういう古い写真はいい。
この日は初めて「すみだ北斎美術館」に行ってみた。常設展だけにしたけども、息子は喜んでいた。
富岳三十六景のうち、「凱風快晴」や「神奈川沖浪裏」の状態のいいのがあり感激。
美術館の近所には、三遊亭圓朝自宅跡があるのをGoogle Mapで知り、ちょっと足を延ばしてみた。別に記念碑もなくて、公園の片隅に墨田区教育委員会のボードが出ているだけだけども、これにも息子は感動していた。
圓朝の代表作が「牡丹灯籠」「塩原多助一代記」「文七元結」などなど多数書いてあるのだが、「芝浜」「死神」「鰍沢」を含めず代表作を挙げられるというのが、すでに凄い。まあ、このあたりの作品は、作者について多少疑義があるようですが。
その後、これはたまたまだが野見宿禰神社に寄り、歴代の横綱の名前の刻まれた碑を見る。
落語・講談でおなじみの、四代横綱谷風の名もあった。
もうちょっと時間が余り、京葉道路沿いの串カツ田中で一杯やっていく。子供連れだと、たこ焼き(9個)タダで焼かせてくれて、デザートにアイスまで付けてくれる。
すぐ出るつもりで、串カツ10本のセットとビール頼んだだけなので申しわけないです。これで2千円で釣りが来ましたからね。
串カツ田中、最近終日禁煙になったことで有名だが、禁煙のためか女性グループが早い時間から多く来ていて盛況。女性が来れば、子供も来る。
タバコ吸う男どもは、社会の経済活動において、すでに不要とされているわけだ。
たこ焼き焼いていた分、両国寄席の開演に間に合わなくなってしまう。私も、ちょっと酔って6時開場と勘違いしてしまった。
両国亭のそばの吉良邸も息子は見たがっていたが、またにする。
遅れて入場するとすでに前座は引っ込み、番組トップバッターの三遊亭ふう丈さんが上がっていた。かつて先代圓楽と闘った円丈師の弟子で、落語協会所属。
この一門は、白鳥師をはじめよく両国には顔付けされている。
この日の番組は、前から3人がゲストである。落語協会と芸協の二ツ目。出る人は定期的に両国に出る。
円楽党の噺家さんについて、世間がどういうイメージを抱いているのかよく知らないが、私は大好きだ。
そして、そこに呼ばれる他団体のゲストたちもまた素晴らしい。パラダイス両国。
日ごろからこんな協力関係があるので、林家九蔵問題につき、落語協会が円楽党に対して組織として対応することなど絶対にできないのだ。市馬会長からは、謝罪含みのコメントが確かあった。
正蔵師も、副会長の立場として円楽党と喧嘩はできない。あくまでも林家(自称)総帥として対応したと考えられる。
さて、ふう丈さんもちょっと楽しみにしていたのだが、途中から入ったので、わけのわからない新作の内容が理解できない。
いや、新作がメインの人なので、わけわからないのは全然いいけど。
なんでも、奥さんのいびきに悩む旦那の噺らしい。途中、ネタおろしというようなことも言っていた。
しかし、ふう丈さんも達者ですね。達者というのは、わけわからない新作を掛けても、客席をいたたまれなくさせていなかったから。
新作の場合、コケると収拾のつかないことがあるので、まずそこをクリアする必要がある。
おばさんの4人組が、ふう丈さんの着物の裾を客に見せびらかす所作を見て「ヤダア」などという。
おばさんたち、落語についてはまんざら知らないわけではないようなのに、この後も結構よく喋る。肥瓶にヤダアといい、無精床にヤダアと言い。
知らずに喋るより、知って喋るほうが困る。大声ではないけどちょっと嫌でした。
まあ、こんなのも含めて、両国スタイルだなあ。
入りはスタート時は半分くらいだが、仲入りの頃には埋まっていた。ただし演者とやたら近い最前列だけはかなり空いていて、これはいつもそう。
立川吉幸「家見舞」
二番手は立川吉幸さん。芸協の二ツ目だが、来年の真打が決まったそうでおめでとうございます。
立川流の真打昇進間近になって、師匠・談幸と一緒に芸協に移り、改めて寄席での前座修業までした苦労人。
芸協の二ツ目は三年で突破である。
立川志らく師が、芸協での前座スタートにつき勝手にケチをつけたが、大きなお世話というものだ。
そして、芸協は実は優しかったのだ。きちんと寄席で修業しなおした噺家を、仲間として認めてくれたのである。
もちろん、認められなかったらまだ二ツ目が続いていたことも想像は付くが。
そういえば、師匠・談幸、いまだに芸協の香盤では破線の下に名前がある。すでに客員ではなく正式メンバーのようだけど。
このたびの新真打、夏丸、蘭にも香盤で抜かれている。このあとどうなるのだろう。まさか弟子にも抜かれるのか? それとも、弟子と一緒に香盤が上がっていくのか? あるいは上のほうに推挙してもらえるのか?
それはともかく吉幸さんを聴くのは三度目。しのばず寄席と、東神奈川かなっくホールで聴いた。間違いなく上手いのだが、噺のメリハリがもうひとつの気がして、ブログではあまり触れていない。
だが、この日の「家見舞」(肥瓶)は大変よかった。真打にふさわしい芸。
この噺、根本的に疑問を持つことが多い。
当ブログを始めた頃にこれについて書いた。どうして家見舞の弟分たちは、世話になっている兄貴にひどい真似ができるのか謎がある。
当ブログで頻繁に取り上げている私のバイブル「五代目小さん芸語録」を紐解くと、このあたりの疑問はかなり解消する。
吉幸さん、柳家の伝統を受け継いでいる芸である。たぶん談幸師から来てるのだろうな。
寄席ではよく掛かる家見舞、短い時間でもできるがゆえに、汚い水の料理を食わせる噺になってしまっている。冷ややっこから新聞紙が出てきたりして。
だが、汚物ギャグ全開の前に、弟分たちの気持ちまでしっかり描くには、それ相応の手順が必要なのだ。
吉幸さんの演出はまず、瀬戸物屋に行き、金がないので「またの世にでも願いましょ」と追っ払われ、古道具屋で「掘り出し物」の瓶を見つける。そして、運ぶと随分と臭いので、川の水で洗う。
ちゃんとここまでしっかり描く演出、まずない。というか初めて聴いた。
料理のウケどころも、しっかり弟分たちの気持ちに沿っていて、ギャグのためのギャグになっていない。
素晴らしい。
おかみさんはいなくて、兄貴はお母さんとふたり暮らし。この型も初めて聴く。
ところで、吉幸さん、前述の私の記事に書いた「弟分たちが水の出どころをわかった上で、泣きながら食う」っていう演出はいかがでしょう。
どなたかやってくださらないかな。
初音家左吉「無精床」
次がさーちゃんこと、落語協会の初音家左吉さん。つい先日、鈴本で楽しい「鰻屋」を聴き、さらにこの両国の後黒門亭に「ロックンロール園長」を聴きにいった。
この人も、発表されていないが真打昇進は近い。
献血マニアならではの、献血ルームの楽しいマクラを振ってから「無精床」。
献血の仕込みをサゲに使っていたが、その工夫よりも、噺の世界観がすばらしかった。
無精床は寄席でよく聴く話だが、ひどい目に遭わされる客について、可哀そうだと感じてしまう演出が多い気がする。
いや、シャレの世界をマジに聴いちゃいけないが、でもそういう風に聴かせる噺家さんが多いのだ。
だが左吉さんの描く世界、ボウフラの水を頭に掛ける羽目になっても、頭から出血しても、なんだか楽しそうだ。
まさに理想的な落語の世界。
どうやってこの世界を作り上げているのだろう? きっと、演者自身が、ひどい目に遭う客の立場でも楽しそうなのがいいんだと思う。
そして意外と、円楽党に流れる空気感と共通している。
やや後輩になるが、円楽党だから先に真打になっている三遊亭朝橘師とちょっと似ている気がする。
二人とも、強烈な印象はないのだけど、じわじわ染み入ってくる芸だ。こういう人の落語は、その高座の楽しさに比例しては、書くことが少ない。
三遊亭楽之介「目黒のさんま」
次からが円楽党の顔付け。三遊亭楽之介師。
立秋を迎えました、今日は目黒のさんまをやりますと宣言。8分くらいの短い噺なんで、小噺を入れますからと。サゲはおなじみの「さんまは目黒に限る」です。よかったらご一緒にどうぞ。
といって、本当に目黒のさんまを。とぼけた師匠だ。確かに、テンポのいい短めの本編だった。
小噺の中には、読んだことくらいはあるが、寄席で聴いたことのないものもあった。
「殿様と鯛」などはおなじみだが、他にもいろいろ。
飛ぶ雁について「ガンとは言わず、カリとお言いなさい」と教わった姫様、キセルの雁首が落ちたのを見て「カリ首が落ちたぞ」。
子供の前で下ネタだ。別にいいけど。
用人とひそひそ話をするため、屋敷を離れ品川沖まで出ていく殿さま。「屋敷のハトに聞かれたらいけない」。
地噺だから、「さんまに会いたいさんまに会いたい」と言う殿様を「30年前の大竹しのぶみたいに」と表現するのはよくある演出だが、楽之介師も入れてました。
三遊亭好の助「錦の袈裟」
早くも仲入り前の三遊亭好の助師。
もうさすがに、林家九蔵関係のマクラは振らない。
秋田の竿燈まつりに仕事で行き、隣町との意地の張り合いを目の当たりにして来たと。
亀戸での襲名披露では、好の助師が単なる一過性の話題の人ではなくて、並々ならぬ実力の持ち主であることを書いた。
この日の一席は、前回をさらに上回っていて心底びっくり。フラもある人なので、2~3年のうちに、話題でなく実力で売れてくるに違いない。
うちの子がいるのに、廓噺を掛ける好の助師。隣町への対抗意識がマクラとつながっている。
息子は親に無理やり連れてこられているのではない。真に落語好きなのは袖から見てればわかるので、廓噺も行けると踏んだんだろう。
でも、「お見立て」とか「紺屋高尾」「五人廻し」「付き馬」ならともかく、女と一緒に床に入っている「錦の袈裟」を掛けるってどうなんだろう。
私自身は親として、息子に廓噺を聴かせるのが悪いとは全然思っていない。子供を連れてくると噺家さんが気を遣うという引け目は持っているので、むしろ出してくれて全然構わない。
与太郎と廓のコラボという、落語世界の中心にある楽しい楽しい噺だが、息子を連れずに行ったとしても、頻繁に掛かる噺ではない。
子供がいるのになぜか出る、好の助師の錦の袈裟を聴く。
すばらしい演出だったと思う。
まず、与太郎だけ錦のふんどしの割り当てがないが、普通だと、与太郎がバカなために割り振られないことになっている。
落語の世界って、「与太郎も仲間に入れてくれていい世界だね」って、この噺を根拠に説明されたりもするけれども、現代の感覚からすると少々不思議だ。バカの与太郎だから、仲間には入れてくれるのだけど、最初から同じ扱いとしてではないのである。
だが、好の助師に掛かると、与太郎だけ錦が割り振られないのは、おかみさんが賢いのが理由だから。つまり、あの知恵者のおかみさんなら、1枚足りない分なんとかしてくれるさというのが、仲間の共通認識にある。
ちょっとした工夫だけど、実に気持ちがいい。差別されていない与太郎なのだ。
与太郎、妻帯者なのに吉原に行く。時代背景としてそういうものだというのを語らないと、そこは客がすんなり聴けない。だが同時に、落語世界に浸るためには邪魔な説明でもある。
またしても、そこを実にスムーズに処理する好の助師。
しっかり者のおかみさんは、隣町に並々ならぬライバル意識を燃やしているのだ。それで3年前、隣町と自分の町にそれぞれ2組の婚姻があったことを受けて、負けられないと与太郎と結婚したのだそうだ。
そんなカミさんだから、町内の付き合いで仕方なくではなくて、焚きつけるように送り出してくれる。
「政略結婚だったのか」と真相を知ってショックの与太郎。でも楽しそう。
その先はおおむね通常の演出なのだが、すでに先達を上回る世界観の構築に成功しているので、最後まで楽しく聴けた。
与太郎がボーとした殿さまに勝手に祭り上げられるのを楽しく見守る。
堀井憲一郎氏の九蔵問題コラムを感心して読んだ方々も、好の助師をぜひ一度聴きに行って、その実力を自分の目で確かめてくださいな。
息子も、もう仲入り? とびっくり。遅れてきたのは確かだが、楽しい噺が続くとそういう感覚になる。色物が入らないためもあるか。
三遊亭小円楽師は初めて。ずいぶん円楽党にも通っているので、初めて聴く人はもうあまり残っていない。
手紙無筆は、落語協会では短い時間でサラっとやる噺だと思うが、古い演出なのか結構たっぷりめだった。
この兄貴、ちょいちょいボロを出す。八五郎は、そろそろ兄貴も無筆なのに気づきそうだが、なぜかいつまでも気づかない。
クイツキでありヒザ前である出番にぴったりの楽しい噺。
実に楽しい寄席でした。コスパも最高。
竜楽師匠をはじめ円楽党、ゲストの皆さま、本当にありがとうございました。