圓太郎囃子が掛かって、橘家圓太郎師匠。
マクラは早々に、八っつぁんが隠居を訪ねてくる。
「八っつぁん、あたしゃお前さんが大好きだよ」「・・・一緒になりますか」「そこまで好きじゃない」。
ふざけた大人の楽しい会話。
さすが圓太郎師、前座噺の細かい部分から面白いなと。
だいたい、この人が描く人物は常になにかしらふざけている。
粗茶のくだりから、隠居の趣味である書画へ。
ここまでの導入部は無数の噺に使われている。道灌、一目上がり、雑俳、浮世根問。
だが、書画からショウガが出て、やり過ぎると鼻の頭赤くなるってねまでくれば、道灌でしょう、普通。
出てきた絵は、鶴。正月でもないのに、まだ片づけてないんだねと八っつぁん。
いやいやついこないだ出してきたんだよ。新婚夫婦が訪ねてくるから、鶴のくだりを話そうと思って。
あれ、道灌じゃない。びっくり。
鶴は生涯つがいで添い遂げるんだよと隠居。
「鶴は春風亭小朝と違うんですね」「なぜお前は自分の師匠を持ち出す」
八っつぁんが、若い人に話すには説教くさいエピソードですねと、なぜか隠居に食って掛かる。
隠居はほんのちょっと八っつぁんを凹ましたくなり、「首長鳥がつるになったいわれ」を話し出す。
道灌の導入部から「つる」につながる流れがあるとは知らなかったのでびっくり。一番メジャーな落語協会だからなおさらびっくり。
つるのいわれを人に話したくてならなくなった八っつぁん。隠居を辞去してアニイのところへ。
隠居は別に、やめとけとは言わない。
最近、アニイは俺に会うと一言目が「よう、バカ」だ。ひとつ賢いところを見せてやると張り切る八っつぁん。
アニイを訪ねると、「なんだうすらバカ」。
アニイは忙しい。八っつぁんに対し含むところがあるわけではなく(←ここ大事)、本当に忙しい。お前の話は今度ゆっくり聞くから。
無理やり話し出す、八っつぁんのつるの説明は極めてシンプル。
いちいち「白髪の老人が」あたりを間違えることはないので、極めてスピーディ。
ただ残念ながら、「つー」「るー」のくだりだけ間違える。
古典落語「つる」において、どうしてそんなにつるのいわれが話したいのか、八っつぁんの了見がわからない高座は実に多い。
なぜなら、もともとそんなやつはいないからだ。
だが圓太郎師に掛かると、八っつぁんの気持ちが流れるように客に染み込んでくる。話したくて仕方ない八っつぁんに共感してしまう。
嘘みたいだが本当だ。
「黙って飛んできた」と締める八っつぁんの悔しい気持ちまで。
めおと楽団ジキジキも末広亭ではアッという間。ウラワーウラワーなんてやる時間はないし、舞台に出ているアコーディオンも触らない。
続いて主任の弟弟子、柳亭左龍師。
家内も一緒だったのだが、圓太郎さんと左龍さん、どっちがどっちか後でわかんなくなっちゃったって。
確かにちょっと似ている。顔じゃなく体形がなんとなくね。
圓太郎師の場合、中身はトライアスリートだから原材料は異なるけど。
執念妄念残念の小噺から。この時季だからお菊の皿でだいたい間違いないところ。
この季節もの、寄席では取り合いになるのだ。
夏の間数回聴いても楽しいし、出ると嬉しい噺。
この噺、陰影をくっきりつけてやりたくなってしまいがち。特に若手は。
だが左龍師は、冒頭から静かなトーンで、できるだけフラットに進めていく。これが実に楽しい。
「クサい所作で見得を切るお菊」をやったあとは、スッとまた静かなトーンに戻るのである。
「前が詰まって逃げられない」というシーンも、当然そうなるに決まってるよねという体で、まったく強調せずに描く。
これは結構すごい工夫だと思う。
おはなしの展開からするとこれこそハイライトなのだけど。
サゲもシンプルで「明日お休みなの」と一言。
既存のお菊の皿に多少感じる、引っかかる点がことごとく削られている。
青山鉄山が、お菊を切り殺すというシーンが入っていないので驚いた。毎日無実の罪で責めさいなまれて、お菊さんは自ら井戸に飛び込んだのだそうだ。
少しでも客を不快にしたくないという意図なのだろう。
桂ひな太郎師は、2年前の暮れにここ末広亭で聴いて以来。
その際の「たいこ腹」には、落語観がひっくり返るほどの衝撃を受けたものだ。
なにしろ、通常爆笑落語として扱われる演目に、クスグリがほとんどなかったので。
教わってからさらにクスグリを削り取ったのではないかと思う一席は、しかしたまらなく面白いものだった。
上手いな、ではなくちゃんと「面白い」のである。
この日もたいこ腹。まあ、得意演目が被るのは仕方ないな。
しかしやはり楽しい。クスグリがないため、まったく同じものを見せられたと感じないのだった。
幇間・一八はいよっと若旦那に精いっぱいのヨイショ。
「針とはいい趣味だね、芸者衆のたもとをちくちくっと」「鍼とはいいね、じゃあここに鍼医さんを呼んで打ってもらう」「若旦那が打つとはいいね。じゃあ芸者衆を読んで」と次々同調しているうちに、逃げ場がなくなっていることに気付く一八。
落語の基礎に満ち満ちた、すばらしい古典落語3席でした。
続きます。