「中」のアクセスが伸びないので一日別の記事を挟んで伸ばしました。
戻ります。
コミュニケーションギャップ
ズレ、から引っ張れる要素を思い出した。
与太郎は一方的に秩序を破る存在だが、コミュニケーションというものはしばしば、特に誰の責任でもなく断絶するのであった。
この概念は、「オチの分類」シリーズで取り上げた「ぶっつけ落ち」の際に考え抜いた。
ぶっつけ落ちはほぼコミュニケーションギャップを描いたものだが、なにもサゲだけで発生するわけではない。
古典落語の場合、「侍と町人」「旦那と職人」「江戸っ子と田舎者」「江戸と上方」など、個人の属する集団が細分化されていたため、とりわけギャップは目立った。
「金明竹」なんてこんな典型例。上方言葉と専門用語がもたらすギャップ。
それから、逆に「なぜか伝わってしまう」のが蒟蒻問答。
新作落語にもこのエッセンスは流れ込んでいる。
上方の新作にはよく、「大阪の文化に戸惑う東京人」というテーマが取り上げられる。
あとは、日常世界からの乖離が大きいのにちゃんと存在しているギャルなんか入れると落語になる。
オタク落語もそうかな。
騙し
コミュニケーションギャップは自然にズレが生じるものだが、ここに意図的なものをぶつけてやると笑いがやや変質する。
「騙し」も笑いになる。
私の個人の感想だが、詐欺師というものは、本質的に騙すのが快なのだと思うのである。単に利益を得る手段でなく、自らのアイデンティティが詐欺にあるのだ。たぶん。
この要素は、上の記事で3日にわたって書き記したので、もうやめておく。
アクセスは大したことなかった。今回もそうだけど。
侮蔑
詐欺になると、被害者が出てくる。
しかしながら、加害者の立場に立つと笑いが生じるのも事実。
人を思いっきりバカにする笑いもかねてより存在し、最近では廃れつつある。
人に備わっている、マウンティングの快に訴えかける笑いの要素。
あまり社会的にはいいとされていない。実際、最近の学校ではいじめに快を見出すことが減ったのではないだろうか。
これに快を見出す構造が残る以上は、ターゲットは必ず発生するわけだ。最近は、いじめに快を覚えそうになると、そこで人間の感情にブレーキが入るようになっている。
落語には、侮蔑の笑いは昔からあまり見られない。
落語の場合、与太郎や甚兵衛さんも決して見下されはしない。少なくとも、見下すことの快を見出した噺はないと思う。
もしかするとここに入るのが「ちりとてちん」「酢豆腐」。
でもこれらの噺も、何度も当ブログで取り上げているのだが、いじめには思わないな。
オウム返し
騙し、侮蔑からはちょっと距離があるのだが、終盤に掛けてそろそろスムーズにつながらなくなってきた。
落語によく使われる「オウム返し」について。マネしてしくじるというやつ。
こんな噺の重要要素。
- 青菜
- 時そば
- 道灌
- 子ほめ
- 牛ほめ
- つる
- 十徳
- 鮑のし
- 熊の皮
- 加賀の千代
- 看板のピン
- 権助魚
- 阿弥陀池(新聞記事)
- 猫久
- 松竹梅
「猫の災難」も、オウム返しの変形じゃないかな。「こう言い訳するぞ」と決めているのだけど、なにせ酔っ払ってるから決めた通りにできない。
つまり自己オウムだ。
それから、「本膳」「荒茶」もマネの失敗の噺で、要素は似ている。
いろいろ笑いの要素を見てきた中でオウム返しを振り返ると面白い。
噺ができたときは、あるいは「共感」がベースにあったのかもしれない。だがその後時代を生き抜き普遍化してきたときに、共感(俺もやってみよう)の要素は消滅している。
失敗するからと言って侮蔑でもない。
映画の寅さんを見るように、ほほえましく見守る笑いということになるか。
それから、「人間は教わった通りにやると劣化する」ということだ。教養もないから、教わったことを意味をなさないセリフで覚えてしまう。
伝言ゲームも、徐々に劣化するから変質していって面白いわけだ。
伝言ゲームと言えば、林家彦いち師がかつてマクラで話していた。
黒門亭に「不動坊」をネタ出ししていたら伝言ゲームで東京かわら版に「黒ん坊」と記載されてしまう。
仕方ないので、落語事典に記載されていた誰もやらない「黒ん坊」を掛けるハメになったという。落語の関係者も落語を作るのである。
シャレ(地口)
もう最後のほうになって、わりと基本の要素が出てくる。もはや前とのつながりはない。
なぞかけブームのおかげで流行ってきた気がする。
- 洒落番頭(庭蟹)
- 洒落小町
- 雑俳
洒落番頭が流行っているのだが、洒落小町も誰かやって欲しい。
シャレものが意外と少ないのは、扱い方が難しいからだろう。
すでに楽しい落語の中で、トッピングのようにシャレを入れるとバランスを崩す。
だから、洒落番頭のように、シャレのわからない旦那というカウンターを仕込む必要がある。
価値観の逆転
ストレートな笑いというより、客の感性を揺るがす要素を最後に。
「立場の逆転」という要素を出したが、それとは違う。噺の土台を揺すぶる強烈な奴。
- 一眼国
- 錦の袈裟
目黒のさんま、では逆転まではいかないか。
一眼国がすごい。
一つ目の化けものをさらおうとして、あべこべにつかまり、「二つ目とは珍しい」と見世物に出される。
錦の袈裟は、与太郎が殿さまにまつり上げられる。
結論
落語はなぜ楽しいか、なにによって楽しいかを考えてきたが、結局なんの結論も出ませんでした。
最初に「緊張と緩和」で取り上げた疑問も回収できなかった。
もともとは落語が「お笑い」に勝っている笑いの要素はなんなのかを追求しようと思ったのだが。
明らかにならないことが多いから面白いのでしょう、と言い訳してみる。
またいずれこんなものを書きます。