柳家花緑弟子の会@らくごカフェ3 その3(柳家勧之助「寝床」下)

古典落語は、ある程度同一のテキストを繰り返し聴くもの。
文字に起こされたテキストなんていうものは速記と、演者が自分で書き起こす台本以外にはないけれど、落語ファンの頭の中にはちゃんとあるのだ。
落語は、同じテキストを繰り返し聴いて喜ぶ芸か?
そういう面もあるが、常にそれをよしとするわけではない。
よく知っている噺だからこそ、あえて裏切ってこられたときに、「そう来たか」と揺すぶられて興奮してくるということがある。
だがせっかく工夫しても元のテキストのほうが面白いなんて場合は、戸惑ってしまう。

「誰ががんもどきの製造法を訊いてるんだ」なんてフレーズは、聴き手の期待に応えて出てくると、とても嬉しいものなのだ。
そういう予定調和的な期待が裏切られ、いっぽうで元の展開に替わるプラスアルファがない。
いや、原典と同等には面白いのだけど、原典を上回っていないと、あえて裏切った意味がない。

面白いのに感触の微妙な寝床を聴きながら、柳家小ゑん師の「鉄寝床」を思い出した。
これは寝床のパロディであるが、よくできたパロディだからこそ、原典がよく浮かび上がってくるのだ。
自慢の鉄道模型運転会に誰も来ず、怒った旦那が頭から蒸気を噴いて「(銚子電鉄の)ぬれせんべいなんて乾かせ!」と叫ぶギャグ、パロディだからこそやたら面白い。
寝床のようなあまりにもよくできた噺を、中途半端に変えるのはどうなんでしょう?

三遊亭萬橘師で「寝床」を聴きたくなった。持っているかどうかも知らないが、あの師匠ならば、完璧に作り替えてくれそうなのだが。
萬橘師みたいな人はもちろん落語界にいて欲しい。
でもいっぽう、古今東西のテキストに忠実に演じることが、徹底的な工夫より下なんてものでもない。落語ファンのすべてが、広瀬和生氏ではないのだ。
実際、黒門亭で聴いた柳家一九師の寝床は、非常にスタンダードな内容で、すばらしいものだった。
勧之助師なら、忠実にやってもすばらしい出来になると思うのだ。さまざまなチャレンジが無意味だなんていうつもりはまったくないけども。
そういえば、感動した中村仲蔵でも、サゲを変えていたな。工夫に余念がないのはいいのだけど、果たして原典を超えているか?

勧之助師がさまざまな工夫をすることで、かえって従来のままのサゲに引っかかってしまった。
もともと、変な噺だということだ、寝床は。
「あそこがあたしの、寝床なんでございます」というサゲ、よく考えたらすごく変。
旦那は毎回長屋の連中を呼んで義太夫を語るのであり、当然いつも同じ場所で語っているはずである。
今回だけ御簾内であっても関係ない。
定吉は、旦那が自分の寝床で語ったことを嘆くなら、毎回嘆いていないとならない。
この変なサゲは変えないんだね。変えたら「寝床」じゃないやというのはともかく。

開演前と仲入り休憩は寝て過ごす。おかげで、落語の最中は寝ない。ただ、ちょっと頭がぼおっとするが。
仲入り後、トリは柳家緑助さん。
前回の「花見小僧」に続く刀屋。
前回、花見小僧を師匠に上げてもらってないと語っていたのはウソだろう。花見小僧が上がってないのに刀屋はできまい。
実は刀屋も上がっていないのだが、SNSにいちいち書かれると面倒だから説明しないという説も。

しかし、緑助さんのような若い人に刀屋なんかできるのかしらと一瞬思う。
もっとも、年を取ってから掛けるプランニングだとしても、若いうちに覚えておいたほうがいいもの。
覚えれば、客の前でやりたくなるのが自然。義太夫じゃないけど。

続きます。

 

作成者: でっち定吉

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